【連載日記】怪談記者・高田公太のデイリーホラー通信【最終回#20】作家・高田公太、誕生のひみつ/桂正和先生の「ウイングマン」が文字との出会い
新聞記者として日夜ニュースを追いながら怪異を追究する怪談作家・高田公太が、徒然なるままに怪談・怪異や日々の雑感を書き殴るオカルト風味オールラウンド雑記帳。だいたい2~5日前の世相を切ったり切らなかったりしながら毎週月曜日と木曜日に欠かさず更新していた日記もついに感動の最終回!
目次
2021年3月14~17日(最終回)
このデイリーホラー通信が終わる。
理由は人気がないからだ。
と書くと、いかにも弱小作家残酷物語のようだが、実際はそもそも竹書房からの「三ヶ月くらいまずはやってみましょうか」という提案を受けてのことなので、予定通りといえば予定通りだ。
しかしいざ書き始めると、我ながら随分と面白い日記エッセイに仕上がっていたので、「もしかしたら三ヶ月以上続くんじゃない?」と期待を抱いてしまっていた。
が、やはり怪談ファンの目は厳しい。
この日記の特色の一つ「デイリーホラー通信」と言いつつ、ほぼホラー・怪談に触れない点もさることながら、大元が「ほとんど誰も知らない作家の書いた日記」だったことも閲覧数の少なさに繋がったのだろう。
反省……する点は特にない。
私は物凄く面白いものを書いたのですから。
さて、締めくくりに最近あったとっておきのエピソードを披露したい。
私はかねて、文様作家で数々の怪談イベントを企画しているApsu Shusei(アプスー・シュウセイ)くんと交流がある。
アプスーくんは関東と関西の二拠点を行ったり来たりしているので、会うことはほとんどない。
触れ合いのほとんどはLINEかZOOMだ。
先日、ZOOMで話をしていた時に漫画家の桂正和先生の話題になった。
なんでも桂先生は相当な怪談好きで、特にOKOWA関連の怪談師がお気に入りとのこと。
そんな縁から、アプスーくんは桂先生とすっかり仲良くなったのだそうだ。
私はこの話を聞いて、とても興奮してしまった。
というのも、私と桂漫画のファースト・ミーティングは後の作家活動にも繋がるほど決定的な体験だったからだ。
私は幼稚園の年少組にいた頃に、交通事故で右足首を骨折している。
よほどトラウマになっているのか、今でも事故時の様子を生々しく思い出すことができる。
今でもよく通る、弘前市西茂森町の天満宮のほど近く。
路側帯に立つ私と友達のUくん。
Uくんが先に歩行者信号の青で渡ったあと、一人で道路を跨ぐことに躊躇した私が渡った時、信号は完全に赤だった。
あっと気がつくと道路に転がっていて、足元にタイヤがあった。
右足首の肉が見えて、血が流れていた。
不思議と痛みは感じず、恐怖感だけがあった。
ほどなく救急車が来て病院へ搬送された。
救急車の中でもやはり痛みはなく、私は幼稚園の先生の名前を叫んで助けを求めていた。
当時の担任だったI先生は、私がうっかり飲んでしまったスイカの種をへそから取り出すという魔法のようなことができたので、きっとこの惨状も何とかしてくれるだろうと思っていたのだ。
記憶は入院生活に飛ぶ。
私は弘前市立病院に入院した。
搬送時に泣き叫ぶほどには元気だった私は、もちろん大部屋に入った。
右足全体がギブスで覆われ、車椅子で生活した。
尿瓶やおまるに慣れず、周囲は知らない人ばかり。
人見知りだった私はいつも緊張していて、毎日が退屈だった。
看護師は、私の上半身に少し角度をつけるために、病院が定期購読している雑誌の古本を枕の下に何冊か入れていた。
それが「週刊少年ジャンプ」だった。
付き添いの母がいない時は、よく枕の下から一冊抜き出してジャンプを「眺めて」いた。
字が読めないので、あくまで「眺めて」いる程度だ。
当時のジャンプは「北斗の拳」、「キン肉マン」、「Dr.スランプ」など今でもレジェンド級に扱われる漫画が多く連載していた。
どの漫画も魅力的で、絵を見ているだけでも楽しかった。
そしてジャンプを何冊か読んでいくうちに、段々と「週刊連載」の概念が分かっていき、続きものを読む喜びを知ることとなった。
そして、ついには字を読みたくなった。
連載していた漫画の一つ、桂正和先生の「ウイングマン」がどんな話なのか、知りたくなったのだ。
入院時、他の漫画は絵だけでなんとなく内容が分かるのだが、「ウイングマン」だけは絵のみではもう一つ分からなかった。
桂先生の描く、明らかに他の漫画と違った絵柄に惹かれた。
カッコいいヒーローの造形は子供心をがっちり掴み、描かれた美少女はとにかく可愛かった。
そして、母と見舞いに訪れる大人たちから字を教えてもらった。
流石子供の吸収力は強く、あっという間にひらがなの読み書きだけでなく、アルファベットも書けるようになった。
ルビが読めるようになった私は、ジャンプの最新号を求めて病院のテレビが置かれた休憩所まで一人で車椅子を進め、「ウイングマン」に没頭した。
ちゃんと吹き出しを読むと、内容が分からなかった所以は、設定の妙にあったことに気がついた。
そして、やはり「ウイングマン」は他の漫画と一風変わった魅力があるぞ、と分かった。
退院後に幼稚園で自分の名前を鉛筆で書いたところ、I先生がそれを教室のみんなの前で褒めてくれた。
結局は歯抜けに読むことになっていた「ウイングマン」の全貌を知るために単行本を買い揃えた。
ルビのある少年コミックスは恐るるに足らずだ。
字が読めるという武器に気をよくした私は、卒園するまでにルパンとホームズの児童向け全集にも手を出していた。
ルビさえあれば何とかなるし、そうやって読んでいると自然に漢字も読めるようになるものである。
そして小学校ではスティーブン・キングを読むまでになるのだが、これは全てあの入院、あのジャンプ、あの「ウイングマン」のおかげだ。
活字に対する自信を持った私は、その後遠回りをしてから作家になる。
どうやら全ては繋がっていたようだ。
「こうやって話すと、あの事故も無駄じゃなかったんだな」
と私はアプスーくんに桂先生にまつわる自分の思い出を話した。
アプスーくんは「良い話ですね」と言った。
後日、アプスーくんからLINEが届いた。
アプスーくんが桂先生にこの話を教えたところ「泣きました。ありがとうございます、とお伝えください」というメッセージが来たのだそうだ。
市立病院のベッドで、「ママ、これなんて読むの」「これ、読んで」とせがんでいる子供がいる。
ジャンプの元へ、休憩所をたむろする知らない大人たちの間を、緊張しながら縫って走る車椅子の子供がいる。
私はその子の元へ行き、
「君は今から37年後に、ウイングマンを書いている漫画家からお礼を言われるんだぜ」
と教える。
するとその子は少し訝しんだ後、
「もしほんとなら、ぼくからもお礼を言いたいな」
と言う。
「だって、あの漫画はとっても面白いんだ。おじさんは字を読める? 字を書いたりできる?」
「ああ、できるよ。ウイングマンも知ってるよ」
「へえ」
そこまで話すとその子はまた開いていたジャンプに目を落とした。
私は静かにその場を去り、スターバックスの席へ戻った。
アプスーくんに「人生は楽しいね」と返信した。
出会いがあり、過去と未来がリンクする。
文化が人を結ぶ。
誰かが行動すると、誰かに影響を与える。
たとえ辛くとも、たとえ後悔があっても、行動は思わぬ結果を生んでいるものだ。
あの日の赤信号は、人生においては青信号だった。
I先生の名を呼んだおかげで、魔法がかかったのかもしれない。
あの頃、私のドリムノートには何と書いてあったのだろうか?
人生は楽しい。
かつらせんせい ありがとうございます
※日記は今後、高田公太のnote(https://note.com/kotatakada1978/)で連載します。