【日々怪談】2021年4月14日の怖い話~ 親切

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【今日は何の日?】4月14日: 椅子の日

親切

 霧島さんは五十代の営業職である。
 ある夏の昼下がりに、得意先へ挨拶に行くために電車に乗った。
 太り気味で汗っかきの霧島さんは、乗ってすぐに空いた座席に腰掛けると、汗を拭き拭き手帳とボールペンを取り出した。だが手帳を開こうとしたそのとき、列車が大きく揺れた。
 あっと思った瞬間にボールペンが手から離れ、足下に滑り落ちると床にぶつかって軽い音を立てた。
 車内は混雑している。わざわざ今席を立って探すのも気が引けた。このまま行けば、十五分もあれば終点に着く。客が皆降りた後にゆっくり探せば良いだろう。

 列車が終着駅のホームに滑り込んだ。ドアが開き、もわっとした外気と入れ替わるように客がドアから溢れていく。
 車内清掃の清掃員から閉め出されるにはまだ間がある。霧島さんは座ったまま首を巡らして車内を見渡した。
 ペンはなかった。
 誰かが蹴っ飛ばしてしまったのだろうか。
 続いて長椅子の下を覗き込んだ。腹が閊えて苦しかった。
 椅子の下のねずみ色の床から、ショッキングピンクの手が生えていた。
 手はボールペンを握っている。
 そのボールペンは自分のものと同じメーカーの同じブランドの同じ多機能ボールペンで、だからきっと自分のものに相違ない。だが、この手は何だ。
 汗を滴らせながら椅子の下をじっと覗いていると、息は苦しく、頭にも血が上った。
 霧島さんは一度立ち上がって体勢を変え、今度は片膝を突いて椅子の下を覗き込んだ。
 やはり鮮やかなピンク色の手は消えなかった。
 今度はその手は形を変えて、霧島さんにボールペンを差し出していた。
 文房具屋に行けば、五〇〇円も出さずに買える品である。
 しかしこれは使い切った芯を幾度となく換えて愛用してきたボールペンなのだ。
 霧島さんは思い切って、手の差し出すボールペンを受け取った。
 受け取ると「ありがとうございます」と頭を下げ、振り返らずに列車を降りた。
 霧島さんは今もそのボールペンを愛用している。

――「 親切」神沼三平太『恐怖箱 百舌』より

#ヒビカイ #椅子の日

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