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【怪語事典】ええ! 意味分からないけど怖い! 超不条理な怪談の恐ろしさを考察してみたら、「現代社会の闇」と「民話」に行き着いた!-2chの怖い話

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 「怪談」と聞くと、四谷怪談のお岩さんをはじめとする恨みと怨念を抱いた幽霊や、死亡事故現場、自殺現場などに現れる無念と悲しみに満ちた幽霊の存在などが真っ先に連想される。
 しかし、数々の怪談に当たっていくと、この幽霊は恨んでいるのか怨念を抱いているのか、そもそも何が狙いでそんな現象を起こすの? と理解が追いつかない怪談がたくさんあると分かる。そしてこれら「不条理怪談」はメディアを賑わす猟奇的な事件や、凄絶な自然災害に似た恐怖を我々にもたらし、いかにも「現代の恐怖」を象徴するような味わいを醸し出す。今回はそんな「不条理怪談」をJホラーブーム、インターネット社会、柳田國男「遠野物語」などを引き合いにして考察する。

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■「不条理怪談」とは

・大前提として物理的にあり得ないことが起こるからこそ怪談なのだが、そんな中でも全く起きた怪異にほんの少しも理解、共感できるものがない怪談。

例えば「自殺の名所で足を引っ張られた」という怪談は、「自殺者の霊が寂しさから自分を死の世界へ呼び込もうとしている」というある程度の想像が膨らむが、「道を歩いていたら首の長さが1メートルくらいある小学生がタクシーをつかまえようと一生懸命に手を上げていたものの、全然タクシーが止まってくれなくて小学生が困っている様子を見た」(筆者が過去に取材した体験談です)という怪談からは、何をどう想像していいのか分からない。これに何か意味を与えるためにはほとんどトンチか大喜利かというほどの想像力を要する。この辺りの「ワケ分からねえ感じ」を持った怪談が不条理怪談の範疇である。

■「不条理怪談」はどこが怖いのか

・シュールなコントのようなものもあれば、人があっさり死んだり怪我をするものもあったりと硬軟の幅が広い。いずれにせよ、まったく理解できないということが怖い。

■「不条理怪談」の反語

・「条理怪談」(勝手に命名)。なぜその幽霊が出たか、なぜそんな怪異が起きたのかのヒントがある程度説明されている怪談。

■This is 「不条理怪談」

 さてさて、当たり前のように「理解できない怪談」云々と書いてはみたが、ここで「ああ、あれね」となるのは怪談マニア。筆者が何を伝えたいのかさっぱり分からない人のためにいくつか例を紹介する。伊計翼著『怪談社書記録 闇語り』をペラリとめくったらこれぞ不条理怪談というものを見つけた。普段は怪談本から一部の引用を転載させて頂いているが、今回は引用はやめて、タイトルと収められた不条理な怪異の模様をお伝えする。ではどうぞ。

「無視できない」

 あるカラオケボックスではバイト向けの注意書きに「四つんばいの赤ん坊を見ても無視すること」と書かれている。

 以上。
 ……え? どういうこと? という話である。
 これは私が何か重要な部分を端折ったわけではない。本当にこれだけが怪異の肝であり、これ以上のことは強く書かれていない。
 この怪談からギリギリ何かヒントを引っ張るとするなら「赤ん坊」というワードだろうか。赤ん坊には母親がいる。ならば、母親を求めてカラオケボックスを彷徨って……いや、なぜカラオケボックス? あと見掛けちゃったとして、これって無視でいいの? 何も悪いことは起きないの? と頭を抱えること請け合いだ。

 さらに不条理怪談をいくつか。これらは筆者が取材したものだ。

「火の老女」

 大学時代の友人智彦くんは、京都河原町で、背中から炎をあげたお婆ちゃんがゆっくりと歩いているところを見た。

「コンビニ」

 以前の職場の同僚田中さんは、昼休憩中にコンビニへ行った。ちょっと立ち読みでもと雑誌コーナーの前にいたところ、どんどんと雑誌ラックの向こうのガラスを叩く音がした。しかし、ガラスの向こうには誰もいない。気のせいだろうともう一度雑誌に目を向けると、またもドンドン。なんだろうと顔を上げたら、外で激しいブレイクダンスを踊る黒人がいた。この方の悪戯かしら、と思う隙も与えず、黒人は一瞬で消えた。

 以上……。いやいや。

 不条理怪談はいくら拾ってもこれに類するものばかりである。「え? どういうこと? 何それ?」という感想を持てばそれが不条理怪談なのである。もちろん、無理矢理解釈を与えることはできる。しかしその解釈はあくまで解釈が欲しくて生み出したものに過ぎない。

■「不条理怪談」についての考察

 さてここからは筆者が不条理怪談について、あれこれ考えた結果をお伝えする。

 我々は不条理怪談に触れたとき、ワケが分からない故の不安を感じる。自分が何かを見落としたのかともう一度その怪談を検めても、そこには何もない。ただ「起きた」という情報だけがあるのみだ。
 例え怪談そのものが「現実の理」から外れているものだとしても、まだ「怪異が起きた理由」があると人は納得するものだ。それは呪いでも妖怪でも、地に根付いた怨念でもなんでもいい。
 
 私が青春時代を過ごした80~90年代にあった心霊写真雑誌や心霊写真の特番では、霊能者やオカルト研究家が必ず心霊写真の解説を一言添えていたものだ。「これは地縛霊ですね」「これは怪我に気をつけた方がいいですね」と彼らは言う。こういった解説が不条理な写真に理を与え、「怖いけど理由があるのだな」と我々を納得させていたのだ。心霊写真そのものには情報がない。しかし信頼できる「解説者」のお陰で不条理の範疇から外れることに成功していた。

 そしてゼロ年代に入ると、さまざまな様相が変わった。
 1999年に産声をあげたオリジナルビデオ(DVD)シリーズ「本当にあった呪いのビデオ」は怪異の意味よりも恐怖映像の切れ味を追求し、2000年公開の黒沢清監督作品「回路」はなぜお化けが出てくるのかの説明はほぼ為されないまま(一応それっぽい台詞は入るが登場人物の妄言っぽくも聞こえる)、世界がどんどん歪んでいく様を描いた。

 Jホラーブームの礎となった、作家・脚本家の小中千昭さんが提唱する創作技法「小中理論」に着目すると、そのルールのひとつに「理由を語らない」というものもある。なぜお化けが出るのかを脚本で語らずにお化けを登場させよう、ということだ。小中理論に従って出来上がった作品は、なぜ出てきたか分からないお化けに登場人物が悩ませられる物語になる。これはまさしく不条理怪談と同じテイストだ。
 
 現在に至っては、かつては多くの人が共感していた霊媒師やオカルト研究家の「こういうことだ」という解説は「お約束的エンタメ」としては受け入れられるものの、ほとんどの人が信用していないだろう。かつて怪談・オカルトにほんの少し興味がある程度の一般人を根底で支えていた「魂」「あの世」という概念も、今では(宗教理念は別として)スピリチュアル方面でしか機能していないようにも思える。今は「人には魂があって」という言葉をカジュアルに発することが憚れる風潮を感じる。

 小中理論を引き合いに出しつつ、この「魂」という概念が希薄になった傾向を見ると、「不条理怪談」は「魂という概念を廃した怪談」と言い換えることができる。
 魂という概念が介在していると思わせる怪談は理解が及ぶもので、魂が介在していない怪談は理解が及ばないもの。筆者はこの差を「こちら側」(魂の介在)、「あちら側」(魂の非介在)と表現したい。

 ゼロ年代を一つの節目とした時、不条理怪談の勃興にはインターネットの発達も大きく関わる。
 猟奇殺人や未成年事件、世界各国の鬼畜なニュースを我々はインターネットから得ることができる。これら残忍な事件を目にした時、人々は「自分とは違う人間」が起こした理解不能な行動として捉えがちだ。
 自分が持つ思考回路と大きく違う人がいる。
 彼らが事件を起こす。
 彼らの思考に共感する部分は一つもない。
 こう捉えたとき、現実に起きた事件ながら条理がすっぽりと抜け落ち、残るのは腐った後味だけだ。
 理解できない腐臭以外に得るものはないニュース。
 おや。まるで不条理怪談のようではないですか。
 自分とは違う側、これもまた「あちら側」と表現できる。
 「あちら側」にいるものは狂気を滲ませた人間だけではない。いくら懇願しても止まらない自然災害も「あちら側」にいるものだ。現象がなぜ起きるかは理解できる、しかし災害の結果が生み出す理不尽さは受け止め難い。自然が「こちら側」にいるとは思えない。

 不条理怪談はとにかく「現実に起きるが理解が及ばない、理解を拒否したい事象」(=「あちら側」)のメタファーとして機能する。だから我々は恐怖するのだ。
 ここで「自然災害」は昔からあったのでは? と疑問を抱く方もいるかもしれない。何も現代怪談を象徴するものとして焦点を当てなくても、不条理怪談は昔から存在すべきだろう、とこういう反論もあり得る。

■柳田國男「遠野物語」を読む

 「遠野物語」は柳田國男が明治43(1910)年に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などの説話集だ。
 詳しい内容は読みやすい口語訳も出版されているので実際に読んで頂くとしてこの「遠野物語」、ざっくりといえば怪談集なのだ。

 収められた話には「天狗」「河童」「オシラサマ」など今も通用するオカルトワードが散りばめられ親しみやすさがある一方、「山の神」や「ある一家を襲った厄災」などが扱われる話は、ものすごく理不尽なものが多い。特に因果応報を感じさせるわけでもなく、人が死ぬ。乾いた文体で淡々と人が狂ったり死んだりしていく展開は、すわ不条理怪談かという様相だ。
 しかし、時は1910年。そして、収載された民話はそれ以前の言い伝えなどだ。

 現代を生きる筆者の頭に「不条理」という言葉が浮かんだとしても、実は時代柄「不条理」ではない。なぜなら、まだその時代には「魂」があり「神」がいたからだ。
 民話・伝承において「不条理」は「神の技」へ上書きされる。神とは不条理なことをするものなのだ。当時の人々は「神の理不尽」を受け止め、それらを「こちら側」として受け止めていた。きまぐれな神のルールを我々が受け入れたら、この世に「不条理怪談」は無くなる。そもそも「不条理」という概念そのものも無くなるだろう。
 何が起きても不思議ではない世界では何が起きても不条理ではないのである。

■「不条理怪談」の恐怖と悲しみ

 不条理怪談には悲しみがある。
 それは怪異と我々の感覚の間にある「断絶」が生む悲しみだ。「あちら側」とのコミュニケーションができないことが、悲しみを生んでいるのだ。この悲しみが転じて「恐怖」となっている。
 現実にある「あちら側」もまた悲しい。
 さまざまな事件の背後にあるものを辿ると、「あちら側」は思いの他「こちら側」と隣り合わせだったということに気付かされることもある。
 
 もしかしたら不条理怪談で見られる怪異もまた、あなたと隣り合わせな何かなのかもしれない。
 
 本当にあなたは「こちら側」の人間なのですか?
 私にはそう思えない時があるのです。
 ほら、だってあなたが今やっていること、私にはまったく理解できませんから。 

書いた人

玉川哲也 (たまかわ・てつや)

オカルトをこよなく愛でる新進気鋭のフリーライター。

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