【日々怪談】2021年3月10日の怖い話~ ざらざら
【今日は何の日?】3月10日:砂糖の日
ざらざら
独身貴族の佐藤さんはコーヒーが好きだ。自分で飲むためのコーヒーは、いつも近所の自家焙煎の店で量り売りで買うのだという。自分でハンドドリップして飲むのだ。
もちろん豆は粉ではなく豆の状態で買う。挽きたての香りは時間が経つと失われてしまうので、豆をコーヒーミルで挽くのはコーヒーを淹れる直前でなくてはならない。もちろん手回し式のコーヒーミルだ。機械式だとモーターの熱が伝わって香りが悪くなるということらしい。とことんこだわりのコーヒー趣味なのである。
ある日、自家焙煎のコーヒー屋で豆を調達し、翌朝飲むためにキッチンに置いておいた。
店主が今焙煎したばかりだというので、常温で暫く置いたほうが味が落ち着くと考えたからである。
その夜、佐藤さんは珍しく夜中に目が覚めて、トイレに行った。用を足して寝室に戻るときに、キッチンの脇を通り過ぎようとした。そのときにキッチンからは普段聞いたことのない音が聞こえてきた。佐藤さんは立ち止まった。
ざらざらざらざらという軽いものを混ぜ合わせるような音だ。
引き戸を開けて中を窺うと、音が大きくなった。
ざらざら、じゃっじゃっじゃっ。
ざらざら、じゃっじゃっじゃっ。
誰が何をしているんだろう。明かりを点けると、薄汚い和装のお爺さんがいた。頭のてっぺんは禿げているが、耳の脇に絡むようにして髪が生えている。そのお爺さんは、コーヒー豆を竹のざるにあけて、リズミカルに手でかき混ぜている。
その様子を見て、佐藤さんは声を掛けた。
「おい爺さん。何してるんだ」
お爺さんは、はっとした顔をして、その顔のまま、スーッと煙のように消えた。
ざるに入っていた豆はバラバラとキッチンの床に散ってしまった。
あいつ、俺のコーヒー豆で何してくれたんだ。
ぶつぶつ言いながら溢れたコーヒー豆を拾い集めて、再度袋に戻した。キッチンの床掃除はしてあるし、どうせ熱湯で抽出するのだ。何より昨日買ったばかりで口も付けていないコーヒーを捨ててしまうのは忍びなかった。
翌朝佐藤さんは、昨晩見たものは夢だったのだろうと思いながら、コーヒーをドリップした。そのときから違和感があった。香りが全然違う。まさかな、と思いながらコーヒーカップを口に運ぶと、今までに飲んだことのないような素晴らしいコクがある。
あの店の焙煎が、たまたま当たりだったのだろうか。
そうして毎朝素晴らしいコーヒーを楽しんでいたが、一週間と経たずに豆が切れてしまった。
再度同じ店で同じ豆を調達した。家に帰ってドリップしてみると、先日までとは全く味が違っていた。いつも飲み慣れた味なのに、グレードが何段階も落ちたように感じる。
舌が肥えてしまったのだ。
数週間後、再び夜中にキッチンでざらざらと音がしているところに通り掛かった。
引き戸を開けて明かりを点けると、またもや竹ざるを持ったお爺さんがコーヒー豆をかき混ぜていた。佐藤さんに気付いたお爺さんは、前回同様姿を消した。
そのときも豆は床に散ったが、翌朝のコーヒーの味は絶品だった。
「あの爺さんが夜中に豆をかき混ぜると、悔しいけどコーヒーの味が格段に上がるんですよ」
いつもいつも来る訳ではない。だが、朝になって飲んだコーヒーの味が素晴らしく感じられるときには、あいつが昨晩も来たんだなと思うことにしているという。
――「ざらざら」神沼三平太『 恐怖箱 百眼』より