【日々怪談】2021年3月30日の怖い話~ 湯船の中に
【今日は何の日?】3月30日:妻がうるおう日
湯船の中に
野田さんは結婚十年目を迎える男性である。子供はいないが、夫婦で趣味の世界に邁進している。
ある日のこと、野田さんが自宅のバスタブの蓋を開けると、肌色をした人形の頭がひしめき合うようにして浮かんでいた。彩色されていない形成色のままである。
数がとにかく多いのと、目も髪も何もパーツが付けられていない状態に、心臓が一瞬せり上がった。
これは妻が趣味の人形作りのための工程で浮かべているのだろう。
野田さんはそう判断して、居間に戻った。
「今風呂洗おうと思ったんだけどさ、使えないなら先に言ってよ」
「何のこと?」
「人形の頭だよ頭。凄い数浮かんでるから、俺ちょっとびっくりしちゃったよ、風呂使ってるなら先に言ってよ」
「何の話?」
テレビの画面を見ながら、野間さんのほうを向きもせずに話す妻にイライラした。
「ほら、ちょっと来てよ」
手を引っ張って風呂の前まで引きずっていく。
「あんた何言ってんのか全然分かんない。変なこと言わないでよ」
「これだよこれ」
バスタブの蓋を開けると、やはり肌色をした人形の頭が大量に浮いている。
「え、何これ」
妻が声を上げる。
その瞬間、人形の頭が一斉にぐるんと野間さん夫妻のほうに向き直った。
まだ描かれてもいない目が、二人のことを見上げているように感じられる。
じっと見つめられたまま、時間が過ぎる。
一秒だろうか二秒だろうか。夫婦ともに声を出すことができないまま、バスタブの中をまじまじと眺め続けていた。
突然、人形の頭がシャボン玉のように割れ始めた。
パチン、パチン、パチパチパチパチ。
「あ、待って!」
消えていく人形の頭に、奥さんが慌てて手を伸ばそうとしたが、野間さんがそれを遮った。
「でね、うちの奴が酷いんですよ」
野田さんは、うんざりした顔でこぼした。
「〈人形作ってると、ああいうことが起きることがあるの。覚悟しててね〉って。もうね……正直たまらんですよ」
――「 湯船の中に 」神沼三平太『恐怖箱 百聞』より