【日々怪談】2021年7月18日の怖い話~イヌヅキ
【今日は何の日?】7月18日: 防犯の日
イヌヅキ
三井さんの実家にはずっと犬がいた。父は早くに亡くなっていたが、防犯上のこともあってか、母はずっと犬を飼い続けていた。犬の世話は子供達の役目で、兄の宏さんは殊の外、犬が好きだった。
その兄も数年前に大学を卒業し、就職して地方で一人暮らしをしている。
ある冬の日、兄から電話が入った。
「子犬を拾ったんだ」
嬉しそうな声だった。
三井さんは、飼うの? 次に帰ってくるときに連れてきなよ、と声を掛けた。
「いや、大きくなると思うから連れて帰るのは難しいな。帰省のときは動物病院に預けないと」
そのうち写真でも送るよ、と言って電話が切れた。
大晦日に兄が帰省した。まず最初に異変に気付いたのは実家の犬だった。あれほど懐いていたのに、怯えたように近寄らない。こんなことは初めてだった。
次に気付いたのは母だった。兄が元旦に友達と遊びに行っている間に、ドッグフードが異常に減っている。心当たりはないかと三井さんに訊ねてきた。だが、ドッグフードは背の高いバケツの中に保管されている。飼い犬が勝手に食べているとは考えられなかった。
二日の未明のことである。夜中に喉が渇いた三井さんがキッチンに行くと、兄がいた。
兄は飼い犬用の鶏頭の水煮缶を皿に開け、顔を皿に埋めるようにして、手を使わずに半透明の鶏の頭骨を貪っていた。
三井さんは恐る恐る声を掛けた。兄は顔を上げると、三井さんに対して唸り声を上げた。
その目は正気のものとは思えなかった。皿から引き剥がそうと取っ組み合うと、腕を噛んできたので、思い切り殴りつけた。兄は椅子から転がり落ちて〈きゃん〉と鳴いた。
それで正気に戻ったらしい。兄はテーブルの上を見て状況を把握したのか、そのままシンクにげえげえと吐いた。喉を切ったのか、吐瀉物には血が混ざっていた
事情を訊こうとしたが、キッチンを掃除する兄は何も言ってくれなかった。
翌朝、兄はげっそりとやつれた酷い顔をしていた。母は心配そうに声を掛けたが、その言葉にも生返事で、申し訳程度に朝食を食べ終えると逃げるように帰っていった。
昨晩のことは母には伏せていたが、兄が帰った後で母が三井さんを呼んで言った。
「昨日寝る前にね、台所で物音がするから行ってみたら、お兄ちゃんがドッグフードのバケツに頭を突っ込んでいたのよ。あれ、ひょっとしたら食べてたんじゃないかしら――」
母を刺激するのはまずいかとも思ったが、昨晩のことを正直に伝えることにした。
顛末を聞いて、母は絶句した。そして〈お姉ちゃん〉に相談することにした。
〈お姉ちゃん〉は三井さんの戸籍上の祖母に当たる。祖母とは言っても、三井さんと血は繋がっていない。祖父の後妻で母とは余り歳も違わない。普通の人に見えないものが見えたりするので、普段は占い師のようなことをしている。
電話で母から相談を受けた〈お姉ちゃん〉は、その場で兄を何とかすると言った。
「あたしにとっても可愛い孫だからね。すぐに宏ちゃんの家まで行くわ」
付き添いで三井さんも行くことになった。まだ三が日が明ける前に、新幹線で兄の住む街まで行った。道中で兄の様子を詳しく説明すると、〈お姉ちゃん〉は深刻な顔をした。
兄の住むワンルームマンションに着いたのは夕方だった。正月休みだからなのか、人の気配がなかった。兄も留守だった。合鍵で扉を開けると、中は酷い獣臭と腐敗臭がした。
シンクには鶏頭水煮の空いた缶が転がり、床にはドッグフードの袋が横たわって、中身が散乱していた。犬がいるならまだその光景も納得できたが、室内に犬はいなかった。
一度そこを出てファミレスで兄の帰りを待つことにした。夜になり、兄が戻ったのを確認してインターホンを押した。兄はインターホン越しに、何しに来たと言ったが、〈お姉ちゃん〉が来たことを告げると黙ってドアを開けた。
〈お姉ちゃん〉は兄に挨拶するより先に部屋に土足で上がると、振り返って、
「あんたは何があっても、絶対に扉を開いたらいかんよ」
と言い、項垂れた宏さんとともに部屋に入っていった。
すぐに扉の向こうから犬が鳴いているとしか思えない悲鳴が聞こえた。バットで犬を引っぱたいているシーンが頭に浮かんだ。
――正月で人がいなくて良かった。
暫くドアの内側からその声が続いたが、そこに低い唸り声が混じり、続いて家具が転倒するような大きな音がした。
小一時間ほど経っただろうか。ドアが開き、両手に数珠を巻いた〈お姉ちゃん〉が出てきて「終わったよ」と言った。両手は血で真っ赤だった。兄は部屋の隅でぐったりしていた。
〈お姉ちゃん〉の両手には犬の犬歯が刺さったような穴が幾つも開き、そこから血がもこもこと盛り上がっては滴った。急いで病院に行くと、手の甲や指の骨が何カ所も骨折していた。
その後、宏さんは回復し今は元気でやっている。だが前ほど犬には興味はないという。
――「イヌヅキ」神沼三平太『恐怖箱 百舌』より