「バインド 」澤村有希 その1 ~不安~
私——澤村は有楽町のコーヒーチェーン店の前に立っていた。
待ち合わせ時間は午後二時だったのに、一時過ぎに到着してしまったのだ。流石に時間が余る。
先に入って資料でも読んでおこうかと先方へメールを送る。
すぐに返信が来た。
『私も早く着いたので 今 中にいます』
店内を覗くと待ち合わせの相手である、駒田望さんが手を振っている。
知人から最近紹介された彼女は、二十九歳。四年前に地方に引っ越したのだが、つい最近離婚して東京へ戻ってきたのだそうだ。
挨拶を交わす際、真っ先に気がついた。
前回会ったときと髪型と服の趣味が変わっている。
長めで白髪交じりだった黒髪は、明るい色のマッシュになっているし、ダークカラーで生真面目そうだった服も今の流行を押さえたスタイルに変わっている。
「漸く、元の——三年前、東京にいたときの自分に戻った気がします」
駒田さんははにかむように笑う。
では、何故彼女が変わってしまったのか。そこに焦点を当てながら、話を伺った。
二十五歳になってすぐ、駒田さんは結婚した。
相手は二十三歳の時に人の紹介で出会った会社員で、爽やかな人物だ。
名を乾憲次という。
初めて会ったとき年齢は三十歳。大手勤務ではないが羽振りはよかった。
訊けば副業の収入がかなり大きい。会社が副業を認めており、近年話題のパラレルワーカーという奴だ。
「僕と結婚するなら、専業主婦になって欲しい。収入は十分にある」
つきあって一年経たない内のプロポーズにはこんな言葉があった。
承諾したのは、ある種の打算もあった。会社の人間関係に疲れていたし、仕事そのものをしたくなかったのだ。
専業主婦ならその点をクリアできる。子供が出来たら育児に時間を割きやすい。
承諾した後、お互いの家に挨拶へ行った。
駒田家は関東だが、乾家は飛行機の距離があった。
訪れてみると地方都市的な場所であったが、これまで自分が暮らしていた地域とは異なる文化を感じる。
彼の実家は郊外にある邸宅で、意外と大きい。
義理の父母になる予定の二人は、資産家的な雰囲気があった。
歓待しながらも、二人はこちらを値踏みするような目で見ていた。
一泊することになっていたから、余計に気が重い。
豪華な夕食も喉を通らず、最初に入れと言われた風呂も落ち着かなかった。
彼が元使っていた部屋に二人で眠ったが、夜中に何度も目を覚ましてしまう。
何か耳慣れない物音が原因だった。
ボォオーッ、ボォオーッ、ボォオーッ、ボォオーッ、という低い唸りのような音。
頭に浮かぶのは、複数の男性が口を卵形に開けて、喉から異様な音を絞り出している姿だ。
何故そんなものがイメージされたのか分からない。
いつまでも続く異音がじわじわと部屋の外へ近づいてきているような気がする。
「……ねぇ、あれ、何の音?」
彼を起こして質問したが、機嫌が悪い。
どうせ蛙とか虫とかそういうのだ。この辺り、田舎だから、とぶっきらぼうな答えだ。
間を置かず、再び寝息が響く。外の音は止まない。すでに窓のすぐ外から聞こえる。
「やだぁ……」
小さく声を出したとき、音が止んだ。と同時に、部屋の入り口ドアがミシリと鳴る。
誰かが外から体を凭せ掛けているような雰囲気を感じた。
ドアの軋みは続く。外の何者かが圧力を掛け続けているのか。
そっと起き上がり、ドアに身を寄せて向こうを窺う。
ドア表面に触れた何かが擦れる音と軋みがリンクして聞こえた。
(まさか、彼のお父さんとかお母さん?)
急に怒りが湧いてきた。息子の部屋とは言え、何をしているのだ。
ノブを素早く回し、強く引いた。
しかし、誰も居ない。
そこにあったのは暗い廊下だけだった。
とは言え、完全な闇ではない。
誰かがその場に留まっていれば絶対に見える。身を隠したとしても足音すら聞こえなかった。
呆然としていると、彼が背後から彼が声を掛けてくる。
今し方の出来事を説明したが、鼻で笑われた。
この家ではそんなことはなかった、そもそもそんな馬鹿らしいことを言うな、と。
諦めて布団へ戻った。すでに彼は微かな鼾を掻いている。
この先に待つ結婚に僅かな、漠然たる不安を感じたことは否めなかった。
~つづく~