「片町酔いどれ怪談 」営業のK 第17回 ~ZIPPO~
俺は基本的には物には拘らない性格だ。
ブランド品が好きな訳でもないし、車も移動手段として問題が無ければ軽四で十分だと思っている。
しかし、片町へ飲みに出かける時にはそれなりに変な「拘り」が顔を出してしまう。
決して高級な店に行くわけでも、お目当ての女の子がいる店に行くわけでも無い。
いつもの店、場末のバーやスナックを何軒か回るだけの一人飲みだ。
それでも、家を出る前にはタバコをシガレットケースに整然と並べ、それをセカンドバッグの中に入れて準備を整える。
元々酒がたいして強くない俺にとって、お酒を飲むというのは日常から離れ、できるだけリラックスした時間を過ごす事に他ならない。
薄暗い店の中で煙草の煙と共に自分のペースでバーボンを飲む。
俺にとってはまさに至福の時間だ。
そして、そんな時にはどうしても欠かせない物がもう一つだけある。
それは――「ZIPPO」のライターである。
片手で持ってヒンジを開け、“キンッ”という音を愉しんでから、おもむろに火を点ける。
微かなオイルの香りと共に流れ出すタバコの煙を静かに吸い込む。
それこそが俺にとっての理想的なタバコの吸い方だった。
昔はタバコというものに関してこれほどの拘りは持ち合わせてはいなかった。
勿論、「ZIPPO」というライターにもだ。
だから今の俺の流儀は、以前体験したこんな出来事に起因しているのかもしれない。
あれは俺がまだ社会人になって間もない頃、職場の先輩に連れられて行ったバーに頻繁に出入りしていた時期があった。
元々、バーという場所を、ただ単にウイスキーが大好きな酔っぱらい達の溜まり場と思い込んでいた俺は、マスターに顔を覚えられるようになると我が物顔で古くからの常連客のように振る舞っていた。
いや、古くからの常連客なら絶対にしないような非常識な事も平気でやらかしていた。
大声で喋り、チェーンスモーカーのごとく煙草を吸い続け、珍しい酒を見つけるとまだ飲み切っていないグラスをそっちのけで新しいウイスキーやカクテルを注文しては悦に入っていた。今思い出すと顔から火が出る思いだが、当時の俺は気づかなかった。
酒を飲む場所は自由であるべき。
だから何をやっても許される……。
そんな勘違いをしていたのだと思う。
だが、マスターはそんな俺にも一度も嫌な顔をしなかった。
今冷静に考えれば、それは俺をその店に連れて来てくれた会社の先輩の顔を立ててくれていたからなのだろう。先輩に免じて許してくれていたといってもいい。
そして、その店の消連客達も俺に冷たく当たる事はなかった。
若いから仕方ない。
どうせ言っても聞かないだろう。
そんな思いで受け流していたのだろう。
しかし、ある時、俺に声を掛けてくる客がいた。
店に入って来た時から、その客に対するマスターの態度は特別温かいものを感じた。
本当に大切なお客さんが来てくれたという感じが伝わってくるのだ。
しかし、俺がその客を見るのは初めてだった。
だから俺としては腑に落ちないというか、正直面白くないものを感じていた。
久しぶりにやって来たその客よりも俺の方が常連であり、お店に貢献しているじゃないかという思い上がりがあったのだ。
すると、その見慣れぬ客は、カウンターに陣取る俺にこう言ってきた。
「ここはお前なんかが来るべき店じゃない! とっとと帰れ!」
一瞬むかついたが、そう言われて初めて俺はその店における自分の存在というものを痛感した。
店の雰囲気に合わない客。
周りの客に迷惑を掛けている客、なのだと。
だから、俺は何も言い返せなかった。
そして、すぐにお勘定を済ませて静かに店を出た。
もうこの店には二度と近づかないでおこう……そう思いながら。
それから、俺はその店には行かなくなった。
しかし、どれだけ他の店に賑やかに飲んでいても、なぜかその店の事が頭から離れない。
そのうちに俺は自分の本心に気付いた。
ああ、本当にあの店が好きだったんだな――と。
しかし、あの店に行けばまた周りに迷惑を掛けてしまう。
今更ながらバーのしきたりもマナーも心得ていない俺には、バーという店の敷居はあまりにも高すぎた。
そして、最後にそのバーに行ってから半年ほど過ぎた頃だった。
夜の片町を飲み歩いていた俺に声を掛けてきた者がいた。
その顔を見た時、俺は驚きと恥ずかしさで思わず立ち尽くし何も声が出せなかった。
それは、最後にあのバーに行った時、俺を叱責した男性だったのだ。
唖然とする俺に、その男性は親しげに声を掛けてきてこう言った。
最近、あの店に顔を出さないみたいだけど他に楽しい店でも見つけた?
でも、せっかく会ったんだから、今夜は一緒にあの店に行かないか、と。
俺は戸惑いのあまり返事を返せていなかったと思うが、半ば強引にそのままあのバーに連れていかれていた。
半年ぶりに店に入ってきた俺に、マスターは以前と変わらないトーンで、
「いらっしゃいませ。今夜は何を飲まれます?」
と聞いてくれた。
それだけで何か救われたような気がした。
だが、その男性と隣り合わせでカウンターに座った俺は、異様に緊張していた。
何しろ、俺がその店に行けなくなった原因でもある人物と一緒に、カウンター席に座っているのだから。
ただ、男性の様子は前回会った時とはまるで違っていた。
ある意味、バーのマナーと楽しみ方を教えてくれるかのように優しく接してくれた。
そして、俺が前回の非礼を詫びると笑いながら、
気にする事無いさ、誰でもが通る道なんだから。
若いんだから、さっさと忘れちまえよ……。
そう言ってくれた。
そして、目の前のグラスを一気に飲み干すと、同じウイスキーを注文する。
その時、初めて俺はその男性が愛用している香水の匂いに気付いた。
甘く甘美なムスクの香りだった。
良い香りですね、この香水。
思わずそんな言葉が口をつく。
男性は静かに笑って内ポケットから両切りの煙草と「ZIPPO」のライターを取り出すと、火を点けたタバコを深呼吸でもするように大きく吸い込んだ。
俺には、その一挙手一投足がとても魅力的に感じられた。
この男性は酒を飲む為だけにこのバーに来ているんじゃないんだ。
この空間、何よりこの時間をとても大切にして静かに楽しんでいる……。
そう、感じた。
それからも、俺はその男性からバーに関する知識だけではなく酒や煙草、そして仕事や恋愛に関しても色々と教えてもらった気がする。
それでも、バーのマナーを逸脱してしまう俺を嘲笑する客がいると、その客に向かって、「何が可笑しいんだ? 今、勉強中の者を笑うんじゃない!
誰だって通ってきた道だろうが?」と俺を庇ってくれることもあった。
そうして、再びその店に通うようになった俺だったが、その男性と会える周期は次第に長くなっていき、やがては半年以上も会えない状態になった。
それでも、バーでは相手のプライベートに踏み込むのはタブーだと他ならぬ彼自身から教えられていたから、マスターにも何も聞くことができなかった。
しかし、ある時その店に行くと、マスターが俺にこっそりと教えてくれた。
……その男性が亡くなったという事を。
元々、持病があり、それが悪化して病院のベッドでひっそりと亡くなったのだそうだ。
結婚もせず、仕事と趣味、そして酒を愉しみとして生きた人生だった。
俺はあまりのショックで明らかに固まっていた。
そんな俺にマスターはこう言ってきた。
あの方なりに幸せな人生だったんだと思いますよ。
幸せの価値観なんて人それぞれですから……。
それに、最後に貴方をお弟子さんに出来て、あの方もきっと嬉しかったんだと思いますから――と。
そう言われて俺は大声で泣いてしまった。
他の客の目など全く気にならなかった。
そんな事があって、またしばらく俺はその店に行くことが出来なかった。
しかし、久しぶりに訪れたその店で俺は不思議な体験をしたのだ。
カウンターに座り、好きなバーボンを注文した時、確かにその男性の香水の香りを感じたのだ。
そして、相変わらず100円ライターを愛用していた俺がタバコに火をつけた時、その男性が愛用していた「ZIPPO」ライターのオイルの心地よい香りが鼻を掠めた。
ああ、まだこの店に来てくれてるんだ……。
俺は思わず嬉しくなってその男性が好きだったスコッチをマスターに注文した。
マスターは不思議そうな顔をせず、静かに俺の横の席にそのスコッチの入ったグラスを置いた。
俺はその時、心の底からこう感じていた。
ここは、本当に素敵な場所だな……と。
それからも、俺はそのバーに通い続けている。
いつも、その男性が隣に座っていてくれるような気がして、心は温かい。
やがて、俺がタバコに火を点けるのは100円ライターではなく「ZIPPO」に変わった。
あれからもうどれだけの月日が経ったのだろうか?
今もその店で飲んでいる俺の横には、きっとその男性が座ってくれていると信じている。
著者プロフィール
営業のK
出身:石川県金沢市
職業:会社員(営業職)
趣味:バンド活動とバイクでの一人旅
経歴:高校までを金沢市で過ごし、大学4年間は関西にて過ごす。
幼少期から数多の怪奇現象に遭遇し、そこから現在に至るまでに体験した恐怖事件、及び、周囲で発生した怪奇現象をメモにとり、それを文に綴ることをライフワークとしている。
勤務先のブログに実話怪談を執筆したことがYahoo!ニュースで話題となり、2017年「闇塗怪談」(竹書房)でデビュー。
好きな言葉:「他力本願」「果報は寝て待て」
ブログ:およそ石川県の怖くない話! 段落
★「片町酔いどれ怪談」は隔週金曜日更新です。
次回の更新は11/13(金)を予定しております。どうぞお楽しみに!
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