【日々怪談】2021年3月8日の怖い話~ エスカレーター
【今日は何の日?】3月8日:エスカレーターの日
エスカレーター
工藤さんの話。
都心の地下鉄の乗り換えで、長大なエスカレーターに乗っていた。
下りが一列で、上りが二列。エスカレーターのステップは階段よりも高い。片方の膝が悪い工藤さんは、エスカレーターに乗るときは歩かない。
上りのステップに立ち、ゆっくりと地下深くのホームから運び上げてくれるのを待つ。
ビルのフロア五階分ほどの長さはあるだろうか。
二十段ほど先に、スーツを着たサラリーマンが立っている。左手に革のアタッシュケースを握っている。
そのサラリーマンもステップに立ったままだ。まだ若いのに歩かないなんて珍しいな、と工藤さんは思った。
だが、もう少しでエスカレーターが上り終わるというときに、そのサラリーマンがいきなり前のめりに転倒した。
下から見上げると、脛がステップからはみ出ていた。男のものらしき黒い革靴の爪先が見える。
「大丈夫ですか!」
工藤さんは下から声を掛けた。だがサラリーマンは動かない。
後ろを振り返ってみても、いつもなら何人も並んでいるエスカレーターに人影がない。
周囲には誰もいないのだ。
工藤さんは慌てた。ごくりと唾を飲み込む。
――自分がやらねば。
覚悟を決めた。
工藤さんは膝の痛みを押してエスカレーターを駆け上った。
追いついた。男はピクリとも動かない。
「大丈夫ですか!」
立ったまま男に声を掛ける。酷く膝が痛んだ。
「大丈夫ですか!」
やはり男は返事をしない。痛む膝を押してしゃがむと、男に手を添えた。
もう降り口だ。
エスカレーターのステップがフラットになっていく。
だがそれに合わせるように工藤さんの手の下にある男の身体は平べったくなり、エスカレーターの櫛状の吸い込み口に、ステップと一緒に吸い込まれていった。
ただ、残されたスーツケースが、カタン、カタンと音を立てていた。
スーツケースをそのままにしておく訳にもいかないので、工藤さんはそれを拾い上げて駅の事務室に預けた。
誰かがスーツケースを受け取りに来た、という連絡はまだない。
――「エスカレーター」神沼三平太『 恐怖箱 百聞』より