【日々怪談】2021年3月27日の怖い話~ 敗北の味

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【今日は何の日?】3月27日:さくらの日

敗北の味

 紀子さんの兄の光司さんは空手の有段者で、週に何度か仕事の後に道場に通っている。
 道場で稽古した後、道着のまま川沿いの道をジョギングしながら帰宅するのがいつもの習慣だ。
 ある日、光司さんは普段戻ってくる時間になっても戻ってこなかった。
 大会が近くになると、師範との打ち合わせなどもあって、帰宅が遅くなることはままある。しかし家族の誰も打ち合わせがあるという話は聞いていない。
「お兄ちゃんどうしたんだろうね」
 普段の帰宅時間を一時間過ぎた。何度か携帯に電話を掛けても連絡が付かない。普段なら遅くなるときには必ず連絡をしてくる兄なので、父母も心配し始めた。
「もしかして、チンピラみたいな人に絡まれたんじゃないかしら」
 母親が心配そうに言う。母は以前、武道の黒帯は法律上凶器扱いになるという都市伝説を信じていた。しかも、裁判で有罪になるから反撃してはいけないという話を何処かから仕入れて心配していた。
 ――そもそも道着を着ている空手の有段者に好んで喧嘩を売る人はいないだろうに。
 紀子さんが母の心配っぷりに呆れて溜め息をつくと、玄関で靴を脱ぐ音がした。
「お兄ちゃん、おかえり! 遅かったね。どうしたの?」
 紀子さんがそう声を掛けても、光司さんは、それ以上追求することを拒む口調で、
「ああ、ちょっとな」
 と答えて、風呂場に直行してしまった。
 洗濯カゴを確認すると、兄の脱いだ道着の背には土埃が付いて酷く汚れていた。
「やっぱり喧嘩とかじゃない? 紀子、明日それとなく聞いておいて」
 寝る前に、心配する母からそう頼まれた。

「お兄ちゃん、どうしたの? 昨日何かあったの?」
 翌日、紀子さんが仕事から戻った兄に訊くと、光司さんは暫く逡巡した後で、
「空手、続けていく自信がなくなっちまってな――」
 と答えた。紀子さんは驚き、昨晩何があったかを訊ねた。
「信じられないかもしれないけどさ」
 光司さんはそう言うと、昨晩のことを告白した。

 川沿いの道をジョギングしていると、何かにつまずいて転んでしまった。もちろん舗装されている遊歩道である。古タイヤでも落ちていたかと周囲を見ても何もなかった。
 立ち上がろうとすると、何か巨大なものがのしかかってきた。
 そのまま背中から地面に転がされた。
 頭上で桜の葉が揺れているのが見えた。だが、肝心の相手の姿が見えない。腕を振り回すと、太い針金のような毛皮に覆われた〈何か〉に拳がぶつかった。
 姿は見えないが拳は打ち込める。そう気付くと、光司さんは何度もその〈何か〉目がけて拳を放った。しかし相手は怯んでいる様子をまるで見せない。
 次の瞬間、鼻の穴にぬるっとした温かいものが突っ込まれた。鼻腔を丹念に舐めるように何度も差し込まれた。次は耳の穴。そして目。細く長い舌のようなもので舐め取られる感触に怖気が走った。
 見えない敵に対して半狂乱で何度も何度も拳と膝を打ち込み、渾身の力を込めて抜け出そうとしたが、一切の抵抗が徒労だった。
 どれくらい過ぎただろう。気が付くと桜の根本に倒れていた。道着は乱れ、顔中が粘液でべとべとだった。いいように蹂躙されたことに、情けなさと気持ち悪さ、そして何より悔しさが溢れた。止めどなく涙が溢れた。

「俺のやってきた空手って、何だったんだろう」
 光司さんは寂しそうに拳を握って言った。
 兄妹の中では、光司さんはアリクイのオバケに襲われたという結論になっている。

――「 敗北の味 」神沼三平太『恐怖箱 百舌』より

#ヒビカイ #さくらの日

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