【日々怪談】2021年5月4日の怖い話~会釈
【今日は何の日?】5月4日:植物園の日・みどりの日
会釈
大森さんの住むマンションから通勤や街中に出るためには、目の前に広がる緑の多い大きな公園を突っ切っていく必要があった。
その公園は市民の憩いの場になっている。犬の散歩をする人やランニングをする人、ベンチに座って話をするカップル、走り回って遊ぶ子供達。沢山の人とすれ違う。
ある週末、街に出るために公園を横切ろうとした。そのとき、和服を着たお婆さんが一人ぽつりと立って、何もない所に向かって何度も会釈している場面に遭遇した。
大森さんは、彼女は一体何をしているのだろうかと、好奇心から暫く眺めていた。
彼女の顔は恍惚としているように見える。
ああ、ボケちゃっているのかと納得してその場を離れた。
夕方公園を抜けるときにも、彼女は先程と同じ場所で一人会釈を続けていた。
(変な婆さんだな。一日中会釈してるのか)
そのときもただ通り過ぎただけだった。
次の休みに公園を通ると、やはりあのお婆さんが空中に向けて会釈を続けていた。
あの婆さん、休みごとに公園に来るようになったのかな。
大森さんはそのとき、ちょっとした悪ふざけを思いついた。
あの会釈にこちらから会釈し返してみたらどうなるだろう。
好奇心に打ち勝てずに足早に近寄っていき、彼女の会釈に合わせて頭を軽く下げた。
大森さんの仕草に気付いたのか、お婆さんがにこりと笑った。
にこりと笑い返してその場を立ち去ろうとした。しかし今度は、お婆さんが自分のほうに向かって会釈を始めた。何度も何度も頭を下げてくる。
その場から足早に離れて、もういいだろうと振り返ったときにも、お婆さんはまだ自分のほうに向かって会釈を続けていた。
しまったな。悪い事しちゃったか。ま、いいか。今週はもう会わないだろうし。
その夜の帰宅は夜の九時を過ぎていた。わざと少し遠回りをして公園を避けた。まさか夜になってまで公園にはいないだろうとは思ったが、念のためである。
ついでにコンビニで買い物も済ませた。荷物を提げてマンションに近付いていくと、エントランスの前に誰かが立っていた。和服を着ているのが遠目でも分かった。
やはり公園のお婆さんだった。マンションのエントランスの前で、通りのほうに向かって一人で延々会釈を繰り返している。
あー、付いてきちゃった。大森さんは失敗したなと昼間の自分の軽率さを反省した。だがそれよりも自分のマンションを彼女がどのようにして知ったのかが気になった。
いや、きっと彼女は付いてきたのではないのだろう。ここに立っているのはただの偶然か、もしかしたらこのマンションの住人だったのを自分が知らないだけかもしれない。
きっとそうだ。何だ、それならしつこく会釈するのも説明が付くじゃないか。
だが大森さんは、ポケットからスマートフォンを取り出し、お婆さんに気付いていない振りをしてエントランスを抜けた。そのまま足早にエレベーターホールに向かう。
エレベーターに乗る直前にお婆さんの様子を窺うと、こちらを向いて会釈を続けていた。
あれはやっぱり自分だって分かった上で会釈しているんだろうな。
気持ちが悪い。明日の朝までマンションの前にいたらどうしよう。いや、本当に住人なのかもしれない。徘徊老人として今すぐ警察を呼ぶ手もあるか。
そんなことをぐるぐる考えながら、鍵を回して自室のドアを開けた。
玄関の電気を点けると、そこにあのお婆さんが立っていた。
お婆さんは、邪気のない顔で、にこりと笑って会釈を始めた。
大森さんは絶叫と共に部屋を飛び出した。
――「会釈」神沼三平太『恐怖箱 百眼』より