#3 知らない人
政令指定都市に住む中村さんは、建設関連の会社に勤めている。
三十代独身の彼は実家から通っているのだが、繁忙期には帰宅することすら面倒になるという。
往復の移動に掛かる一時間さえ惜しい。そんな暇があるなら、会社や現場事務所の床で寝ていたいのが正直なところだ。だから、忙しくなる時期は着替え等の泊まりセットを会社に置くことが慣例となっていた。
何年か前の、ある冬のことだった。
現場事務所と会社の往復が続いていた。すでに三日家に戻っていない。
途切れ途切れの睡眠時間は、合計六時間あるかないかだ。
三十路を前にして身体が悲鳴を上げ始めていた。
それでも仕事はこなさなくてはならない。
夜中、守衛さんに挨拶しつつ、裏口から社内に入る。
当然フロアには誰も居ない。自分の席に座ってパソコンを開いたが、強烈な睡魔が襲って来る。気がつくと訳の分からない文字列が打ち込まれていた。
これはいけないと椅子から立ち上がり、中腰でキーを叩いた。腰掛けない状態なら眠れない。眠らない。これまで学んできた仕事上の知恵だ。
思ったより作業が捗った。時計を見る。
針は午前三時過ぎを指している。夜が明ける前に現場へ戻りたい。
腹は全く減っていないが、カロリーを入れておく必要があった。買い置きの固形栄養食を珈琲で流し込もうと、痛む腰を伸ばす。
突然、鉄錆の臭いが鼻と喉を繋ぐ場所に膨らんだ。
(――あ。またか?)
左右に視線を動かす。
居た。
課長の席の横、その薄暗がりに見知らぬ女が立っている。
地味目で気弱そうな顔をした若い女性だ。
身体をこちらへ向けたまま、目だけが脇にある家長の席を捉えている。
彼女は我が社の制服を着ているが、見覚えがない。
ブレザーやタイなどから不慣れな着こなし感が漂っている。入社からまだ半年も経っていない感じか。
ただ、どう考えても現実のものではないだろう。
何故なら、腰から下がないのだから。
女性は課長の椅子を見詰めたまま、消えた。ほんの僅かな時間の事だった。
(また幻覚を見たなぁ)
忙しさが極まってきて睡眠時間が削がれると、決まって幻を見る。
回数は決まっていない。一度と言うこともあれば、数回にわたることもある。大体が大人の男女で、子供や老人ということはなかった。同じ姿を持つものが何度か現れたこともあったが、それも「ああ、また同じのだなぁ」くらいにしか思わない。
ただし、どれも一見して現実世界の存在ではないことが分かる。
半分透けている。頭の上半分がない。頭部と四肢が失われている等、そんな状態でそこに立っているからだ。足を始めとした下半身がないものは宙に浮いていると言うべきかも知れないが、それが〈立っている〉と脳が理解してしまっていた。
加えて他の人間が居るときに目撃したことがない。いつもひとりのときだけだ。
だから、これらは自分の脳が作り出している現象であると結論づけた。
加えて言えば、このような幻が出る前には必ず鼻と喉を繋ぐ部分に悪臭が満ちる。鉄錆臭、もしくは汚水槽の臭い、或いは両方を混ぜたようなものだった。
幻覚とセットで悪臭を感じる原因は〈激務により五感の幾つかがおかしくなっているせい〉だろう、と彼は分析している。
だから今回も相手が幻の存在だとすぐに理解できた。
(あー……やっぱ疲れてんだなァ)
中村さんは固形栄養食と栄養ドリンク、珈琲を腹に入れ、再びキーを叩き出す。
幻覚にかまけている時間などなかった。
激烈な勤務が漸く終わりを迎えた土曜日、午後三時過ぎに自宅へ戻った。
玄関を開けると奥の方から母親が歩いてくる。
帰宅を告げながら洗濯物入りの荷物を渡そうとした瞬間、鉄錆と汚水槽の悪臭を混ぜたような強烈な臭いが鼻と喉の奥に広がった。
咄嗟に左右を見た。幻覚は居ない。
念のため振り返るとすぐ後ろに誰かが立っていた。
先輩社員の宮之城だった。
元々自分の指導係であり、今も親しくさせて貰っている。
忙しさが若干落ち着いているときには二人で呑みへ行き、お互いに愚痴を言い合うほどだ。それほど打ち解けた仲になっていた。
咄嗟のことに臭いと幻覚のことを忘れつつ、何故このタイミングで彼が自分の家に来ているのか不思議に思った。そもそもこれまで幾ら誘っても、「迷惑だから」と遠慮して我が家を訪れてくれたことはなかったのだから。
挨拶をしようと少し距離を取ったとき、ふと相手が着ている服に違和感を覚えた。白い長袖ワイシャツに赤や茶色が斑に散った派手な柄もの――一見、南国イメージの花柄に感じた――なので、こんな服は先輩の趣味ではない。どちらかと言えば、ダークカラーのものを好むイメージがあった。
「あら、お客さん? お友達?」
問い掛けてきた母親の方を見ると、その目は自分の背後に向けられている。
「いや、先ぱ……」
答える途中で母親の表情が豹変した。
驚愕。いや、恐慌か。一体どういうことだ。もう一度後ろへ顔を向けた。
もう、誰も居なかった。
もしや外へ出て行ったのか。探しに行くも、誰の姿もない。
玄関へ戻ると母親が狼狽えながら口を開く。
「……ねぇ、見た? 居たよね? 誰か居たよね? 急に消えたよね?」
そこで初めてさっきの宮之城が幻覚であり、またそれが母親にも見えたことが理解できた。これまでで初めてのことだ。
どう説明したら良いのか思案に暮れている最中、突然携帯が鳴った。
会社の上司からだった。慌てて出る。
『中村? 今いいか?』
硬い声だ。これまでの経験上、上司がこんな口調の時は、良い報せであったことがない。だとすれば現場トラブルが起こった可能性が高いだろう。
先ほどのことは脇に置き、身構えつつ、大丈夫ですと答える。
上司が一呼吸置いて、声を絞り出した。
宮之城が死んだ、と。
宮之城は自殺だった。
中村さんの家に現れたあの日、担当している現場の事務所へ来て、そこで死んだ。
遺体の上は作業着、足下は安全靴を履いた状態で発見されている。所謂、建設現場スタイルであったらしい。
ただ、事務所の席に彼のスーツの上が掛けられていた。わざわざ上だけ着替えたようだ。そのスーツの内ポケットから遺書が発見されている。
自死の理由に関して詳細なものは書かれていなかったと聞いた。
仕事の忙しさと対人関係で悩んでいたことは愚痴の中で知っていたから、多分それが原因で病んでしまったからではないかと、中村さんは推察している。
元々この会社に、いや、この業界に勤めていると心を患う人が多い。
そして行き着くところまで行くと、自ら命を絶つ。
死んで花実が咲くものかと思うのだが、どうしようもない。
今も繁忙期には中村さんは幻覚を見る。
実は、この幻に知っている人間が出てきたことはない。
否。居たかも知れない。が、頭がない、見えないなど、顔が確認できない相手だと判断が出来ないのだ。
少なくとも、それが誰だ、と限定できたことは皆無であった。
――しかし、宮之城が死んだ日、彼の幻を見た日からだが〈白い長袖ワイシャツに南国の華を思わせる赤と茶色の柄が散った姿〉のものが何度か出て来ていた。
あの日、彼の幻が着ていたものにそっくりだ。
だが、頭がないので当人かどうか判別できない。
だから、やはりどの幻覚も、もちろん赤と茶色柄のシャツを着た人も、全く知らない人の可能性が高いだろう。
よって、あれは宮之城ではない。ただの幻覚だ。きっと。
そう、中村さんは思うことにしている。
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久田樹生、黒碕薫、佐々原史緒
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著者プロフィール
久田樹生 Tatsuki Hisada (本連載執筆者)
作家。小説から実話怪異譚まで手がける。代表作に「犬鳴村〈小説版〉」「ザンビ」「南の鬼談 九州四県怪奇巡霊」(竹書房)等。あな恐ろしや服飾系から工業系まで色々働いた経験あり。(社畜歴:25年)
黒碕 薫 Kaoru Kurosaki
小説家。『武装錬金』『るろうに剣心北海道編』(集英社/和月伸宏)のストーリー協力もしている。社畜歴はエンジニアリング会社で4年ほどだが、つらかった思い出しかない。その後外注で入ったゲーム会社はとても楽しかった。(社畜歴:4年)
佐々原 史緒 Shio Sasahara
作家。広告代理店勤務中に二人三脚漫画家の原作担当としてデビュー。2001年小説に転向。ホラー代表作は「1/2アンデッド」シリーズ(KADOKAWAファミ通文庫)。(社畜歴22年)※のべ