【日々怪談】2021年3月29日の怖い話~ 塩手洗い
【今日は何の日?】3月29日:作業服の日
塩手洗い
怪談好きの中野さんが、何か怖い話はないかと友人の彩子さんから聞き出した話である。
彩子さんは普段から妙なものが見える体質だ。だから基本的に夜は出歩かない。
しかし雪が降る夜は別だ。新雪に足跡を付けるために、深夜に傘を差して家の周囲を散歩するのだ。
ある雪の晩、家のすぐ裏の通りを歩くことにした。数百メートルの袋小路である。
歩いていくと左手に氏神様の社のようなものがあり、その前に黒い塊が佇んでいた。そこで急に引き返すのも不自然なので、傘を傾け、そちらを見ないようにして通過した。
帰り道も再びその社の前で傘を傾けて通り過ぎた。
街灯の下で振り返ると、社の前に青いつなぎを着た大柄な男が立っていた。雪の中、男はつなぎの袖を腕まくりしている。
不自然に思い、再度振り返って確認しようとしたが、もう男の姿は見えなかった。
翌日、母親に昨夜のことを話すと、
「坂入さんの家でしょう? あんた知らなかったっけ?」
と言われた。
半年前、坂入さんの家では庭先の樹が茂り過ぎて近所迷惑になっていた。
坂入さんも巨木になり過ぎた樹を持て余していたこともあり、切り倒すことにした。
しかし、あまりにも立派な樹なので、どう手を付けるかと悩んでいると、娘婿が手伝ってくれることになった。彼は建設業に従事しており、足場を組んで上部から枝を落としながら切り詰めていけばいいと言う。高所での作業にも慣れているので、彼に任せることにした。
さすがに娘婿は本業だけあって、しっかりとした足場を組んで作業を始めた。
順調に枝を切り落としていたが、何の拍子か足を滑らせてしまった。落ちた場所は積み上がった枝の上だった。運悪く切り口が上を向いており、身体中に刺さり出血多量で亡くなった。
坂入さんは、大木の根元にあった氏神様をまたぐ形で足場を組んだのが悪かったのではないかと言ったという。つまり、娘婿は社の真上で作業をしていたということになる。
ここまで聞いて、中野さんは彩子さんに、家のすぐ裏手なのだし現場に案内してくれるように頼んだ。しかし、怖いからと断られしまった。
仕方なく、早朝帰りがけに一人で探すことにした。見つけたのは意外と小さな社だった。
わざわざ車から降りて他人の敷地の社を覗くのも変なので、中野さんは車からは降りず、助手席の窓越しにその社を観察したが、よく分からなかった。
彩子さんが見た黒い影は、その場所に佇んでいたことになる。
娘婿は夏の盛りに亡くなった、大柄な建築作業員だ。青いつなぎの男とも符合する。
近所とはいえ、彩子さんは娘婿の容姿や顛末は知らなかった。
自宅への帰り道は助手席側の窓の外が気になった。
信号で停まる度に、何やらチラチラと動く。確認すると、商店の軒先に黒い大きな人影が立っていた。
それは、見ている間に溶けるように薄くなって消えてしまった。影を作るようなものは何もなかった。
見間違いだろうとは思ったが、気になったままでいるのは精神衛生上良くないと、塩手洗いを試すことにした。
少々の水を付けた手に塩を揉み込むと、段々とテカリが出て粘々してきた。そのまま水で流そうとしても弾かれてしまう。
台所用洗剤を付けて洗うと、綺麗に落ちた。どうやら油分が付いたらしい。
塩で手洗いしただけで油が付くとは思えなかったので、もう一度試した。
結果は同じで、手から湧き出すかのように、みるみるうちに手が油まみれになっていく。
匂いは特になかった。洗剤を付けると、やはりすぐに落ちた。
疑問に思ったので、取り分ける前の大袋から直接塩を出して手を洗った。
ところがその塩でも同じように手がギトギトしてくる。
何度も塩手洗いを繰り返すと、徐々にではあるがテカリが減ってくるのが分かった。
十回くらい洗い続けただろうか。
その辺りでようやく油は浮いてこなくなった。
――「 塩手洗い 」神沼三平太『恐怖箱 百舌』より