新黄泉がたり黄泉つぎ

「円い水」川奈まり子

 電車通勤をしている佐藤さんは、いつも決まった道を歩いて最寄り駅へ行く。住宅街を突っ切るおよそ十分の道のりだ。佐藤さん自身と似たり寄ったりの暮らしぶりがうかがえる現代的な二階家が建ち並ぶなか、一軒だけ古色蒼然とした板壁の平屋があって、いつも気になっていた。
 なぜか常に雨戸が閉まっているのだ。相当築年数が経っていて方々が傷み、朝も晩も雨戸を閉ざしているので、まるで空き家のようだが、日が落ちると道に面した炊事場の小窓に灯りが点く。
 休日に散歩がてら何回かようすを確認しに行ったので、日中も雨戸が閉まっているのは確認済みだった。
 いつか雨戸が開くのではないか、と、期待込みの好奇心が膨らんで、次第に抑えがたくなってきた――そんなある日の夜、佐藤さんは今の家に住むようになって初めて、徒歩で会社から帰宅するはめになった。終電を逃してしまったのだ。幸い、会社と自宅、それぞれの最寄り駅は二駅しか離れていないので歩けないことはない。
 例の家の辺りに差し掛かったのは、午前二時頃だった。
 かなり手前から、件の家の前に丈の短い黒い影があるのを認めていた。
 初めは歩道に何か物が置かれているのかと思ったが、近づくにつれ、女だとわかった。
街灯がスポットライトのように女を照らしていた。歩いている佐藤さんの方に折った両膝を向けて、いわゆるペタンコ座りをしている。深くうなだれているため長い髪に顔が隠されているが、体つきから推して、若い女だ。
 酔っ払いか病人か、それとも異常者か……。声をかけるタイミングを計りながら、佐藤さんは間合いを詰めていった。
 しかし結局、彼は声を発することなく通りすぎたのだった。
 女は、コンパスで引いたような円形の水の真ん中に座っていた。
 完璧にエッジが切れた円の形が此の世のものとは思われず、それにまた、水には深淵の気配があり、垂れさがった髪の毛先を呑んで黒々と底が知れない。
 ――水面が街灯を照り返して、ぬらりと光った。
 佐藤さんが慄いて小走りに離れるまで、終始、女は微動だにしなかった。
 振り返ったときも女はまだじっとしていたが、翌朝、同じ場所を佐藤さんが通ったときには、水の痕跡すら無かった。
 乾いた歩道の横に建設会社のトラックが停まり、作業員たちが問題の家を取り囲んで忙しなく働いていた。
 数日後、そこは更地になっていた。

★次回はつくね乱蔵さんです。どうぞお楽しみに!

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