新黄泉がたり黄泉つぎ

「カワマタ」黒木あるじ

 食品工場で主任を務めるK氏が、数年前に経験した話である。

 その日、彼は社員食堂でひとりの後輩に呼びとめられた。
「あの……主任。カワマタって人、知ってますか」
「芸能人の名前? 俺、あんまりテレビ見ないからなあ」
「そうじゃなくて。たぶん、この工場の人間だと思うんですが」
「え、立場上ほとんどの社員を把握してるけど……そんな苗字の人は記憶にないよ」
「でも、いるんです。いたんです」
「……ごめん、ちょっと意味がわからないな」
 訝しむK氏を前に、後輩は「あの……実はですね」と説明をはじめた。

 話は、数日前の深夜まで遡る。
 くだんの後輩は残業を終え、更衣室で私服に着替えていたのだという。
 と──シャツのボタンを留め終えた直後、ふいに〈何者かの気配〉を感じた。本人の言葉をそのまま引用するなら「団扇で扇がれたように、部屋の空気が揺らいだ」らしい。
 けれども更衣室には自分ひとりきりで、ほかには誰もいない。
 なんだ、これ──首を傾げつつ、顔をあげる。
「うわ」
 出入り口のドアに嵌められている、細長い磨りガラス。
 そこに作業服姿の男がべったりと張りつき、こちらを睨んでいた。
 ガラスの所為で細かな表情はわからないが、あきらかに友好的な態度ではない。細面の輪郭に、青白い肌。男の周辺だけ夕暮れのように陰っているのが、〈まともな人間ではない〉ことを一瞬で悟らせたという。
 おののく後輩の前で、男は、ばしんっ、と全身をドアへ激しくぶつけてから──姿を消した。すぐにドアを開けておもてを確かめたが、男はどこにも居なかった。

「で……ガラスにぶつかったとき、作業服の名札だけかろうじて読みとれたんです」
「そこに書かれていたのが、カワマタってわけ?」
 後輩が無言で頷いた。
「カワマタって、どんな漢字?」
「三本線の〈川〉に、又吉直樹の〈又〉です。殴り書きみたいな汚い文字でしたけど」
「ううん、やっぱり知らない名前だよ。なにかの見間違いじゃないの」
「違いますって。何回見ても〈川又〉って書いてあるんですから」
「……何回、見ても?」
「ええ。その男、あれから毎日僕の前に姿を見せるんですよ」
 なんとも信じがたい話ではあったが、そのまま放置するわけにもいかない。
 さっそくK氏は調査を開始した。現在勤めている人間のみならず数年前まで勤務表を遡って、従業員の氏名を調べ尽くしたのである。
 しかし──結果はシロだった。
「そもそも、苗字に〈川〉のつく社員が誰もいなかったんです。困っちゃいましたよね。〝存在しないから大丈夫だよ〟なんて言ったら、ますます後輩が怖がっちゃうでしょ」
 さて、どのように説明しようか。どうやって安心してもらおうか。
 そんなK氏の悩みは、数日後に突然解消された。
 当の後輩が亡くなったのである。
 事故だった。
「入浴中に心筋梗塞になったらしくて。三日後に発見されたときは、ラーメンのスープ状態だったそうです。特に持病もなかったそうで、ご遺族も不思議がっていました」

 話をひととおり終えて、K氏がおもむろに呟く。
「……その男、死神みたいなモノだったんですかねえ」
「死神……ですか」
 彼の唱える仮説に、私はなんとも同意しかねていた。
 幽霊や生き霊というなら、まだ腑に落ちるが──死神とはいささか唐突ではないか。特に余命を宣告されたわけでも、魂を奪うと警告を受けたわけでもない。川又なる男は、単に〈出てきた〉だけなのだ。それを以て死神とするのは、さすがに無理がある。
 そんな私の内心を表情で読みとったのだろう。K氏はおもむろに財布からレシートを取りだすと、裏面になにごとかをボールペンでさらさら書きはじめた。
「……これは、あくまで私の推測なんですがね」
 こちらへ差しだされたレシート裏には〈川又〉の二文字が書かれている。
 先ほどから何度も耳にしている名前。謎の男の名札に書かれていた苗字。
 後輩の「汚い文字だった」なる証言を踏襲したのか、その筆跡はやや乱れている。
 これがいったい、なんだというのか。
 と──首を捻る私に向かってK氏が再び、ぼそり、と呟いた。
「後輩が見た名札の文字……川又じゃなくて」
〈シヌ〉だったんじゃないかな。

 

 

 

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人気作家書き下ろし怪談リレー「黄泉がたり黄泉つぎ」が新しくなりました!

「新・黄泉がたり黄泉つぎ」では当月の作家さんが来月の作家さんへ「お題」を出します。
来月の方はその「お題」にそった実話怪談を披露していただくことになります。
誰がバトンを受け取ったかは更新までのお楽しみ!

第4回・橘百花さんからのお題は「川」でした。いかがでしたか?
さて、第5回・黒木あるじさんからのお題はこちら!→「食」
どうぞお楽しみに。

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