新黄泉がたり黄泉つぎ

「汚れ+」三雲央

 糸田さんは数年ほど前まで、こぢんまりとした公営団地で暮らしていた。
 築後数十年という古い建物であるが故か、その団地は全体的に活気に乏しく、何か気の塞ぐ感じがしたと、糸田さんは当時を振り返る。
「団地全体が薄ら汚れていたんですよね。階段とか通路とか。元は淡いパステル調の建物なんですけど、どこも煤けたみたいに黒ずんでいまして。見るからに不潔な感じがするんです」
 なんの気なしに共用通路の壁に手を付いてしまうと、そこには糸田さんの手形がペタリと残ってしまう――というようなことがしょっちゅう起こっていたらしい。
「壁の塗料の劣化もあるのか、付いた手の跡はいくら拭ってみても完全には落ちないんです。だから今でもその団地には私の手形が薄っすら残ったままあると思いますよ」
 掌のほうにも木炭を握った時のような粉塵が付着し、うんざりとさせられることが幾度もあったそうだ。
 団地のどこもかしこもがこんな状態であるがゆえ、意識して見回してみれば、共用部分の壁の至る所に、様々な汚れが散見されるのだという。
 何者かが強く壁を蹴りつけて付いたものであろう、明瞭な靴裏の痕があったり。
 誰かが壁に寄り掛かったことによるものなのか? それとも鞄でも押し当てたのか? 太い毛筆で墨を撫でつけたかのようなスレ痕が付いていたり。
 子供がボールを何度も投げつけたのだろう。天井付近にいくつも連なって見える、ミカン大ほどの丸い痕が残っていたり。
「それらの中に、どうしたらこんな汚れが付着するものなのか? って感じの正体不明の黒ずみが一つありまして」
 それは糸田さんが団地に入居する以前より存在していたという、真っ黒にベタ塗りされたオイル染みのような汚れだった。
 汚れがある場所は、糸田さんが毎日のように上り下りで通過している、共用階段の踊り場の縦長の壁面。
 この壁面の少し上のほうに、壁面の表面積の二割近くを占めるくらいの、大規模な汚れが付着していたのだそうだ。
「その黒ずんだ汚れが私には、痩せ細った女の子が逆立ちしているように見えるんですよ」
 歪に伸び生えた四肢と不自然に小さな頭部を有した、年の頃、五、六歳くらいの女児に、どうしても思えてしまうと言うのである。
 但し、その汚れの形状は非常に大雑把なもので、ぱっと見ではどう譲歩して表現しても、単に逆さになった小柄な人間のようにしか見えない。
 つまりのところ、男の子か女の子かの判断など、その形状からは到底区別などつけられない。
「……なんですが、その踊り場を通りかかるとですね、耳元に小さく息を吹きかけるみたいな感じに囁き声がすることがあるんです。<ふやふやふや>って感じに」
 果たしてこれが本当に囁き声であるのかどうか全くもって不明なのだそうだが、糸田さんの耳にはそれはどう聞いてみても女児から発せられた声だとしか思えなかったのだという。
 だから、糸田さんにはその汚れが女の子に見えてしまう、ということのようだ。
「踊り場を通りかかる際、私の頭の位置と、壁の汚れの頭部にあたる位置とが、ほぼ同じ高さで一致するんです。だからなんですかね。その汚れの前を横切る瞬間、私の耳のすぐ間近で――ふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふや……」
 糸田さんによれば、この汚れもまた踊り場の壁面に、未だそのまま残されてあるだろうとのこと。

★次回は真白圭さんです。どうぞお楽しみに!

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