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「雨の日の陽炎」
健康そのものの楠田さんは、病院とは無縁の日々を過ごしている。
思い返せば、三十代の頃に虫垂炎で入院したのが最後だ。
ところがこの冬、久しぶりに病院に通う日々が続いていた。
楠田さん自身の病気ではない。母親が入院してしまったのだ。
母親が世話になっている総合病院は老朽化が著しく、二年後には取り壊しが決まっているときく。
そのせいか、構内外を問わず、あらゆる場所が薄汚れたまま放置されている。
職員にも覇気が無く、居るだけで気が滅入ってくるような場所であった。
朝から降り続く雨の中、その日も楠田さんは病院に向かった。
いつものように駐輪場を抜け、玄関に向かおうとした楠田さんは、妙なものを見つけて立ち止まった。
駐輪場に陽炎がある。屋根の下に立つ陽炎など聞いたことがない。そもそもが雨の日である。
だが、それは陽炎としかいえないものであった。
じっと見つめるうち、更に妙なことに気づいた。もやもやとした揺らめきが移動しているのだ。
速くはない。よく見ていないと分からない程度の動きである。
しばらく歩いてから振り向くと、陽炎はまだそこにいた。
それからは気をつけて見るようにしていたのだが、陽炎が現れるのは決まって雨の日であった。
何か起こるわけでもなく、ただじわじわと動き回るだけだ。怖いというより、何だか忌まわしい。
師走に入ってから晴天の日が続き、いつしか楠田さんは陽炎の存在を忘れた。
母親の退院を一週間後に控えた日のことである。
久しぶりに朝からの雨であった。病院の近くまで来て、楠田さんはようやく陽炎のことを思いだした。
目を凝らすまでもない。相変わらず陽炎は律儀に立っている。何らかの自然現象かもしれないなと考えながら、楠田さんは玄関前で傘を畳んだ。
その時である。玄関に横づけにされたタクシーから、親子連れが降りてきた。
険しい顔つきの母親が、三歳ぐらいの男の子を抱いている。男の子は肩で息をしており、見るからに具合いが悪そうである。
先を譲ろうと退いた楠田さんの目の前で、あの陽炎が動いた。今までの緩慢な動きは何処へやら、陽炎は瞬間移動としか思えない速さで母親に近づき、男の子を丸ごと包んだ。
その途端、男の子の呼吸が止まった。
母親の悲痛な叫びに気づいた看護師が駆け寄ってくる。病院の中に搬送される寸前まで、陽炎は男の子を包み込んでいた。
翌々日も雨であった。やはり、陽炎はいた。
楠田さんは急に恐ろしくなり、病院の裏口に回ろうとした。ゆっくりと動く陽炎を横目に見ながら、急ぎ足で裏口へ向かう。
途中、親子連れとすれ違った。母親が息子に話しかけている。
「ようちゃん、大丈夫よ。お熱、早く治してケーキ食べに行こうね」
息子は辛うじて返事できるぐらい弱っている。
このまま進むと陽炎に捕まってしまうのではないだろうか。どうにかして引き留めなくては。
振り返った楠田さんの目の前に陽炎がいた。陽炎はあっという間に男の子を包んだ。
男の子は上を向き、母親に何か言おうとしたまま呼吸を止めた。
★次回は黒木あるじさんです。どうぞお楽しみに!
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