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新黄泉がたり黄泉つぎ
「ニタニタ」
旭川市に、広葉樹の並木が続く幹線道路がある。
その道路は、明治時代に天皇家の御用邸ができる予定であった自然公園と、沢山の家々が犇めく住宅街とを隔て、比較的交通量が多い。
夏至の頃であったという。
夕方、帰宅を急ぐ人々の車で混み合う時間帯だったが、その日は、さほど混み合ってはおらず、流れはスムーズであった。
前の車と車間を保ち、時速四十キロほどで愛車を走らせていた坂崎さんは、突如、強い眠気に襲われた。
瞼が重く、舞台の緞帳のように落ちてくる。
僅かな視界にぼんやりとフィルターがかかり、霧の中を走っているようだ。
――ああ、駄目だ。止まらなきゃ……。
アクセルから足を離そうとしたが、全くいうことをきかない。
微かに見える、前を走行する車との間に、二人の女がとび出した。
――ああっ……、あぶない……、あぶない!
ブレーキを踏もうと必死でもがくが、両足は微動だにせず、ハンドルを切ろうにも、ロックされたように固い。
遂に、車の鼻先が女に到達した。
だが、全く衝撃がない。
重くのしかかる瞼をこじ開けた先に、下卑た笑みを浮かべる、二人の女の姿があった。
外見から想定できる年齢とは不釣り合いな、赤い派手な柄の着物をだらりと着崩した中年女と、黒っぽい地味な色合いの洋服を着た老婆。
二人は、車の前に立ちはだかり、ニタニタと厭らしい笑みを浮かべ、此方が慌てる様子を楽しんでいるようだ。
――車と、同じ速さで移動してる?
そう気付いた刹那、弾けるように霧が晴れ、視界が戻った。
前の車とは、充分な車間距離があり、幸い事故には至らなかったという。
「今でも、あのニヤニヤとした顔が、脳裏に焼き付いているんです」
坂崎さんの体験談を聞き終えて、私の中の古い記憶が蘇った。
高校生の頃、自転車での通学途中、この道に差し掛かった時のこと。
数メートル先に、野焼きの煙のような、濃い煙の塊が漂っていた。
それは一帯に広がるものではなく、歩道の一角を覆う程度のものであった為、そのまま突っ切ろうと速度を速めた。
だが、幾らペダルを漕いでも、煙を抜けることができない。
止めていた呼吸が苦しくなり、堪らずに息を吸い込んだ。
――あれ? 煙じゃない?
湿った土の匂いを感じた。
煙は、湿気を帯びており、まるで濃霧のようだ。
漕いでも、漕いでも、周囲が晴れず、先が見えない。
どんどん、瞼が重くなり、夢を見ているような感覚に陥った。
瞼の隙間から、前に立ちはだかる黒い人影を認め、ブレーキを掴もうとした。
だが、あるはずのレバーが無い。
指が、何度も空を掴んだ。
「よけて!!」
叫んだ瞬間、黒い手が前籠を掴み、顔中に深い皺を刻んだ老婆が、私の顔を覗き込んだ。
ニタニタと、厭な笑みを浮かべている。
三日月形の瞼は、一見、笑っているように見えるが、その奥の瞳は鋭い。
嗤う老婆の手が、私の頬にのびた。
――掴まれたら終わり。
咄嗟に身体を傾け、路肩に倒れ込んだ。
顔を上げると、霧は無く、見慣れた町並みが広がっていた。
今でも、この道路は存在し、多くの人が行き交っている。
★次回は斉木京さんです。どうぞお楽しみに!
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