竹書房怪談文庫|黄泉がたり、黄泉つぎ

「汚れ+」

三雲央

 糸田さんは数年ほど前まで、こぢんまりとした公営団地で暮らしていた。
 築後数十年という古い建物であるが故か、その団地は全体的に活気に乏しく、何か気の塞ぐ感じがしたと、糸田さんは当時を振り返る。
「団地全体が薄ら汚れていたんですよね。階段とか通路とか。元は淡いパステル調の建物なんですけど、どこも煤けたみたいに黒ずんでいまして。見るからに不潔な感じがするんです」
 なんの気なしに共用通路の壁に手を付いてしまうと、そこには糸田さんの手形がペタリと残ってしまう――というようなことがしょっちゅう起こっていたらしい。
「壁の塗料の劣化もあるのか、付いた手の跡はいくら拭ってみても完全には落ちないんです。だから今でもその団地には私の手形が薄っすら残ったままあると思いますよ」
 掌のほうにも木炭を握った時のような粉塵が付着し、うんざりとさせられることが幾度もあったそうだ。
 団地のどこもかしこもがこんな状態であるがゆえ、意識して見回してみれば、共用部分の壁の至る所に、様々な汚れが散見されるのだという。
 何者かが強く壁を蹴りつけて付いたものであろう、明瞭な靴裏の痕があったり。
 誰かが壁に寄り掛かったことによるものなのか? それとも鞄でも押し当てたのか? 太い毛筆で墨を撫でつけたかのようなスレ痕が付いていたり。
 子供がボールを何度も投げつけたのだろう。天井付近にいくつも連なって見える、ミカン大ほどの丸い痕が残っていたり。
「それらの中に、どうしたらこんな汚れが付着するものなのか? って感じの正体不明の黒ずみが一つありまして」
 それは糸田さんが団地に入居する以前より存在していたという、真っ黒にベタ塗りされたオイル染みのような汚れだった。
 汚れがある場所は、糸田さんが毎日のように上り下りで通過している、共用階段の踊り場の縦長の壁面。
 この壁面の少し上のほうに、壁面の表面積の二割近くを占めるくらいの、大規模な汚れが付着していたのだそうだ。
「その黒ずんだ汚れが私には、痩せ細った女の子が逆立ちしているように見えるんですよ」
 歪に伸び生えた四肢と不自然に小さな頭部を有した、年の頃、五、六歳くらいの女児に、どうしても思えてしまうと言うのである。
 但し、その汚れの形状は非常に大雑把なもので、ぱっと見ではどう譲歩して表現しても、単に逆さになった小柄な人間のようにしか見えない。
 つまりのところ、男の子か女の子かの判断など、その形状からは到底区別などつけられない。
「……なんですが、その踊り場を通りかかるとですね、耳元に小さく息を吹きかけるみたいな感じに囁き声がすることがあるんです。<ふやふやふや>って感じに」
 果たしてこれが本当に囁き声であるのかどうか全くもって不明なのだそうだが、糸田さんの耳にはそれはどう聞いてみても女児から発せられた声だとしか思えなかったのだという。
 だから、糸田さんにはその汚れが女の子に見えてしまう、ということのようだ。
「踊り場を通りかかる際、私の頭の位置と、壁の汚れの頭部にあたる位置とが、ほぼ同じ高さで一致するんです。だからなんですかね。その汚れの前を横切る瞬間、私の耳のすぐ間近で――ふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふやふや……」
 糸田さんによれば、この汚れもまた踊り場の壁面に、未だそのまま残されてあるだろうとのこと。


★次回は真白圭さんです。どうぞお楽しみに!

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「いつもの風景」

渡部正和

 綾さんが小学生の頃の話。
 
「もうすぐ卒業だよね」
 何気ない綾さんの一言で、周りの友人達が彼女の席に集まり始めた。
 そして彼女達による小学校の思い出話や、新しく通うことになる中学校への不安などが次から次に語られていった。
 下校時刻は過ぎていたせいか教室内は疎らであったが、彼女達のおしゃべりは続いていく。
「色々と寂しくなるよね」
 グループ内で一番仲が良かった幸子ちゃんが、ぼそりと言った。
「そうだよね。いっつも通ったあの道も、もう通らなくなっちゃうんだもんね」
 綾さんは心の片隅に何とも云えない思いを抱きながら、しんみりと言った。
 彼女と幸子ちゃんはご近所同士だったこともあって、六年間ほぼ毎日一緒に登校していた。
 いつも二人で歩いたあの道も、もうあまり通らなくなってしまうと考えると、綾さんは妙に物寂しさを感じたのである。
「……なんか、悲しいよね」
 幸子ちゃんは少々涙目になっている。
「うん、色々悲しいよね。あ、あのポスターももう見ることがなくなっちゃうのかなあ」
 綾さんは登下校にいつも見かける、古ぼけたポスターの話をした。
 それは、小汚い古ぼけた雑居ビルの隙間を隠すかのように、通りに面して貼ってあった。
 陽焼けや経年劣化で大分色褪せてはいたが、顔立ちのはっきりとしたショートヘアーの中年女性の顔のアップが写っている。
 おそらく芸能人か誰かのポスターを、ファンがあの場所に貼ったのであろう。
 何故なら、商品名やメーカー名がポスター内のどこにも見当たらないことから、何かの商品の販促ポスターとは到底思えなかったからである。
 しかも理由は分からなかったが、その女性は何故か瞼を閉じており、色鮮やかな大小の花々に囲まれている。
 何処となく不気味ではあったが、それより何より、その女性の倖せそうな表情は何度見ても見飽きないものであった。
 今日も見たあの光景を脳内で再生していると、予想外の答えが返ってきた。
「えっ、ポスターって、どこにあるやつ?」
 相変わらず涙目になりながらも、幸子ちゃんが訝しげに返してくる。
「ユッキー、何言ってるの? ほら、あそこのポスターだよ。潰れたお弁当屋さんのビルの間にある……」
 綾さんが説明し始めるが、幸子さんは半ばぽかんとしながら、全く意味がわからないような不可思議な表情をしている。
「ポスターなんて、貼ってないじゃん。あれでしょ。いっつもアヤが気にしている、あのビルの隙間でしょっ?」
 話を訊いてみると、確かに場所に間違いは無かった。幸子ちゃんと綾さんが話しているその箇所は、全くの同一であった。
 しかし、どうも話が噛み合わない。
「私、どうしてアヤがあそこをいっつも気にしてるのかなって、思ってたんだけど」
「気にしているも何も……」
 あんなところにポスターが貼ってあったら気になるのは普通なのではないか、と綾さんは思った。
 むしろ幸子ちゃんは全く気にならなかったのであろうかと訊ねようとした、そのとき。
「あのねえ、アヤ。あそこにはポスターが貼ってあったことなんて一度も無いって」
 しんみりとした気分がいつの間にか消え去ったらしく、幸子ちゃんは断言するかのようにぴしゃりと言った。
「ねえっ! あそこのポスターなんて誰か知ってる? ほらっ、あのビルの……」
 幸子ちゃんは周りの友人達に話を振ってみるが、皆一様にあの場所にポスターなんて無いと声を揃えたのであった。

「よくよく考えると、あの位置にポスターが貼ってある筈がないのよね」
 確かに不思議で合った。彼女の話を聞く限りでは、人一人がやっと通れるようなビルとビルの狭い隙間に、例のポスターが貼ってあったとのことであった。
 しかも、通りに向かって、である。
 とすると、自立式の立て看板か掲示板のように、足を持ったスタンドのようなものが無ければ、ポスターを貼ることは出来ない。
 勿論、ポスターが宙に浮かんでいればその限りでは無いが、流石にそれは無いであろう。
「六年間もの間、私が見ていたのって一体何だったのでしょうか」
 どうしても解せないらしく、複雑な表情をしながら、彼女はぽつりと呟いた。
「しかも、私が見ていたあのポスターって、どう考えても……」
 それを最後に、彼女は二の句が継げなかった。
 あの教室での出来事以来、あの場にいた誰もが例の道を避けるようになったとのことであった。
 綾さんや幸子ちゃんも例外ではなく、多少遠回りをしても、決してあの道だけは通らないようにして小学校を卒業したのである。

 あれから数十年の月日が経って、綾さんは現在他県で暮らしている。
 今でも年に一度は帰省しているが、あの道だけは決して通るまいと、彼女は固く誓っている。


★次回は三雲央さんです。どうぞお楽しみに!

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「顔」

内藤駆

 美春さんは昔からとても疲れた後に寝ると、決まって同じ夢を見る。
 夢の中で毎回、美春さんは暗雲立ち込める薄暗い河原に立ち、黒い水の流れる川を見つめている。
 川は濁流で沢山の大きな魚が流れに沿って泳いでいる。
 正確には泳いでいるのは魚でなく、頭もヒレもないナメクジのような生き物だった。
 美春さんは川の中でうねるその生き物たちを不安げに見つめており、夢が終わるといつも熱を出してそのまま寝込むことが多かった。
 それは大人になっても続いていた。

 美春さんは二十代後半のときに婚約した。
 相手は勤めていた会社の先輩、陽一さん。
 夏休みを利用して美春さんは、地方にある陽一さんの実家に挨拶に行った。
 実家には陽一さんの兄夫婦、母親、祖母、曽祖母が住んでいた。
 昔は豪農だったという陽一さんの実家に行き、最初は緊張していた美春さんだったが家の人々は皆、温厚で気さくだった。
 そして「陽一が可愛い嫁さんを連れてきてくれた」と全員、喜んでくれた。
 しかし、陽一さんの曽祖母だけは寝たきりだった。
 挨拶のため部屋に行ったが、そこにはガリガリにやせ細り、もはや言葉も発することのできない小さな老婆が点滴で命を繋ぎながら布団で寝ていた。
 曽祖母の枕もとには、彼女が若く美しかった頃の写真が置かれている。
 戦前に撮られた写真の中から、まつ毛の長い黒髪の美女が微笑んでいた。
 しかし、今現在の曽祖母の顔は骨に皮だけを張り付け、申し訳程度に頭髪をのせただけの無表情な仮面のようで、若い頃の面影は全くない。

「歳を取るって残酷ね……」

 美春さんは曽祖母を見たとき、失礼だが真っ先にそう思ってしまったという。

 次の日、美春さんは陽一さんの運転する車であちこち観光を楽しんだ。
 だが、午後になると台風が迫ってきたので一旦、実家に戻ることにした。
 帰る途中、実家近くの河原を通りかかったとき、美春さんは声を上げた。
 いつも夢で見る河原とそっくりだったからだ。
 美春さんは車を停めてもらうと、河原へと走った。
 離れた所で降っている雨のせいか、川の流れは激しく水は黒く濁っていた。
 暗雲立ち込める空、薄暗い河原、濁流と化した川の流れ、全部夢と同じだ。
 そして、流れの中にナメクジのような生き物がうねうねと大量に泳いでいるところまで同じだった。
 いや、唯一の違いは全てのナメクジの横腹辺りに、顔が張り付いていることだ。
 それは若き日の曽祖母の美しい顔。
 美春さんは無言で、のたうちながら泳ぐナメクジと曽祖母の顔を見つめていた。
 すると、いつもと違ってナメクジたちに勢いがないように思えた。

「美春、どうしたんだ? 危ないから早く帰ろう」

 陽一さんには、曽祖母の顔が付いたナメクジたちが見えないようだった。
 実家に戻り、二人が玄関前に来たとき、家の中から陽一さんの母親や兄嫁の叫び声が響いてきた。

「おばあちゃんが、おばあちゃんが!」

 玄関の戸が荒々しく開くと、浴衣姿の曽祖母が現れ、そのまま物凄い速さで走ってどこかに行ってしまった。
 点滴に繋がれ、寝たきりだったはずの曽祖母が。
 曽祖母が美春さんの横を通り過ぎる際、ニコッと微笑んで「終わらせる」とはっきり言った、という。
 曽祖母はそのまま行方不明になってしまったが、そこからがさらに不気味だった。
 実家では大往生したということで、すぐに曽祖母の通夜、葬式を執り行った。
 祖母を始め実家の誰もが、曽祖母が台風の日に自力で立ち上がり、外に走っていって行方不明になったことについて触れなかった。
 陽一さんに訊ねると「僕にも何が起きたか教えてくれない」と困惑しながら首を横に振るだけだった。
 美春さんは陽一さんと結婚したが、これと言っておかしなことは起きていない。
 ただそれ以来、美春さんは河原の夢を見なくなった。
 彼女は現在、一児の母親で母子ともにすこぶる健康。
 住まいの東京のマンションには、実家から貰った陽一さんの曽祖母の写真が飾ってあるという。


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「鼻血」

神沼三平太

 藤本さんは都心に通うOLである。彼女は会社からの帰宅途中の道を急いでいた。もう時刻は二十二時を過ぎている。
 すると突然、眉をひそめるようなひどい悪臭が鼻腔を満たした。
 顔面の内側に粘着質な悪臭の塊を突っ込まれたようだ。だが、一歩進むだけでその悪臭は消えてしまう。
 今のは何だったのか。
 気になった藤本さんは、立ち止まって踵を返した。
 やはり酷い臭いだ。しかし、二、三歩でその臭いは消えてしまう。
 納得できないので眉間に皺を浮かせながら、その場で何度か往復し、周囲を見回したが、どこからその臭いが漂ってきているのかもわからない。
 道を見えない悪臭の帯が横切っていると結論づけ、彼女は首を捻って帰宅した。

 帰宅して、まずはシャワーを浴びようと、脱衣所の鏡に映る自身の顔を見て慌てた。
 鼻血が出ている。それも両方の鼻孔から滴っている。
 鏡に顔を近づけると、ポタリと洗面台に赤い雫が落ちた。
 するとそれはもぞもぞと動き始めて、周囲に散らばっていく。
 何事かとよく見ると、それは米粒よりも小さな赤黒いつやつやとした甲虫だ。ティッシュを掴み、片端からその赤黒い粒を仕留めていく。
 次々と仕留めていく途中で気づいた。
 ティッシュが赤く染まっており、そこから先ほどの道で嗅いだ吐き気を催す悪臭が立ち上っていく。
 脱衣所の臭いは、換気扇を回しっぱなしにしても、一週間以上取れなかった。


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「カンナリ様」

戸神重明

 五十代の女性O田さんは、群馬県前橋市に住んでいる。彼女の趣味は友達と食べ歩きをすることだ。その日も友達と東京へ行き、昼食を食べようと、人気があるカフェへ向かった。店先に順番待ちの客が並んでいたので、用紙に〈O田 二名〉と書いて呼ばれるのを待つ。
 しばらくして彼女たちの番が来た。すると男性店員が、
「二名でお待ちのカンナリ様!」
 と、まったく別の姓を呼んだ。しかし、該当する客はいなかった。
「あのう、私、O田というんですけど……」
 O田さんが名乗ると、店員は非礼を詫びて店内へ案内してくれた。忙しそうだったので、まちがえた理由は聞きそびれてしまった。

 昼食後、山手線に乗って別の町へ行き、有名なケーキ店で順番待ちをした。幾つかのケーキを選んで注文したが、O田さんは自分の名前を告げていなかった。待っている客の人数が少なかったので、店員も訊いてこなかったのである。
 やがてO田さんの番が来て――。
「次にお待ちのカンナリ様!」
 若い女性店員が呼んだのは、またしても別の姓であった。
「えっ!?」
 他に待っている客はいなかった。明らかにO田さんの番なので確認してみると、ケーキはすべて彼女自身が頼んだものである。不思議に思ったが、そこへ他の客が来たので、店員がなぜ〈カンナリ〉と呼んだのかはまたも訊きそびれた。一緒にいた友達に訊ねると、やはり〈カンナリ〉という名前を聞いていたそうだ。それなら錯覚とは思えない。

 その上、気になることがあった。O田さんは昔、前橋市内のマンションに住んでいたことがあるのだが、隣室には〈神成(かんなり)〉という五十代の男が一人で暮らしていた。神成は、当時小学生だったO田さんの娘が自室でピアノを弾いていると、午後七時前だというのに、
「うるせえっ!」
 と、窓を開けて雷のような声で怒鳴る。そんなことが何度もあって嫌になったので、現在住んでいる一戸建て住宅に引っ越したのだ。
 それにしても、地元から百キロ余り離れた東京で、しかも別々の町にある初めて行った二軒の店で、なぜかつての隣人の姓で呼ばれたのか……。O田さんはわけがわからず、気味が悪かったという。


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「この事案、進行中につき」

加藤一

 二〇一九年の五月に、大阪駅で飛び降り自殺があったのを憶えているだろうか。
 女性が飛び降りた瞬間を撮影した動画は、たちまちSNSで拡散してしまった。動画はすぐに削除されたが、それを見たという人もいたのではないかと思う。
 大阪と言えば、難波や梅田、千日前などなど、繰り返し事件や事故が起きたり、目撃騒ぎが囁かれたりするスポットが点在しているが、件の大阪駅の近辺にも元々そういう素地はあったらしい。あの駅の北側に百メートルも離れていない場所は大阪七墓のひとつで、貨物線があった頃には、やはりその……何と言うのか〈噂〉が絶えない場所として地元では有名だった。
 そんなこんなで、騒ぎになっていることを知った桃木さんは、休前日の晩に現地まで足を運んでみた。飛び降り自殺の野次馬をしに行ったわけではなく、自殺防止のセキュリティがどうなっているのかが気になったのだ。柵やらフェンスやら、そういった防護措置が施されていない、飛び降りの穴場だったのか。それとも、そうした防護措置があって、尚それを乗り越えてしまったのか。
 申し訳程度に花束が積まれた現場から駅ビルを見上げてみたが、結局のところ専門的なことは分からずじまいだった。
 方々歩き回って大阪駅周辺の因果のありそうなポイントに足を運び、夜半に自宅に辿り着いた。
 寝床に潜り込んだのは深夜二時を回っていたと思う。

 ――突然、目が覚めた。
 夜明けにはまだまだ早く、室内は薄暗い。
 と、寝床に横たわる自分の目前に、誰かの足が見えた。
 靴下を穿いた女性の足である。
 それが、自分の頭を跨いでいったのだ、と分かった。
 視線の先に掛けてあった時計を見ると朝四時の少し前くらいである。
 自分を跨いでいった女が向かった先を見たが、部屋の壁があるばかりで人の姿はない。
 それ以上は何も起きなかったので、そのまま寝直した。
 翌日、だいぶ明るくなってから目が覚めた。
 しかし夜半に確認した時計は四時前で止まっていて、スマホで確かめた正確な時間によれば既に正午を過ぎていた。

 翌日の晩。
 やはり深夜に目が覚めた。
 前夜と同じ時間である。
 薄暗い室内に、再び女の足。
 前夜と同じ靴下を穿いている。
 今夜は頭を跨がず、ただ室内に立ち尽くしているだけのようだが、自分の目前にいるので足しか見えない。

 大阪駅で飛び降りた自殺者は若い女性だったと報じられている。
 その女性が憑いてきてしまったのか、それとは無関係の何かなのか、自分に昔から憑いている誰かなのか、通りすがりの誰かなのか、うっかり霊道を歩いて引っ掛けてきてしまったのか、そこのところはまだ分からない、という。

「今のところオチになるようなことは起きていないので……自分が音信不通になったらそれがオチってことでゴメンやで、っていうことで」
 桃木さんは〈進展があれば続きを報告します〉とは言ってくれた。
 二〇一九年五月六日から始まって五月十日の時点で聞いた話なのだが、今のところ続報はない。


★次回は戸神重明さんです。どうぞお楽しみに!

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「購買部の閉鎖」

小田イ輔

 現在三十八歳のAさんが小学生だった頃の話。

 彼女の通っていた小学校には購買部があった。
「ノートとか鉛筆、消しゴム、あとは名札や紅白帽、他にも学校生活で必要なものを色々と扱っていたな。え? ああ、食品なんかは置いてないの、そうそう、文具中心で」
 それは六年生各クラスから選出された数人の生徒からなる購買委員会によって運営されており、商品やお金の管理も生徒たち自身で行っていたとのこと。
「もちろん毎回その日の売り上げや在庫の数を報告する義務はあったよ。仕入れも先生に相談した上でだったけど、実際に店先に立って販売を担当するのは生徒だったから、本格的なお店屋さんごっこみたいで楽しいんだよね」
 購買部専用に作られた小部屋、毎日昼休みにだけ開かれるその店は、低学年から高学年まで様々な生徒が利用した、しかし――。
「小学校の購買だし、生徒しか利用しないわけだから、私たちもそのつもりで運営していたんだけど……」
 ある日、見知らぬ大人が店先に立った。
「それがね、どんな人なのか記憶にないんだ。ただ妙に言葉が通じ難くて、どうしたらいいのかわからなくなって……」
 何か察したのか、Aさんと二人で販売を担当していた女生徒が「先生呼んで来る」と駆けだすのを尻目に、彼女は一人、その大人と対峙した。
「あの時、なにがあったんだろう、なにか喋ったような気もするんだけど……」
 やがて先生がやって来たが、Aさんは状況を上手く説明できなかった。
「いつの間にか大人の人はいなくなっていて……それで……先生を呼んで来た娘が変なことを言って……」
 女生徒はAさんの言い分に首を傾げ、自分はAさんの様子が明らかにおかしかったために職員室へ走ったのだと語った。
「そしたら先生が『もう出ないかと思ってたんだけど悪かったな』って、私に謝ったの。お金の管理とかすごく厳しくて怖い先生だったから、小学生の私に頭まで下げたのが意外で……それはよく覚えてる」
 それからほどなくして、購買は閉鎖された。
「何故なのか理由は分からないんだけれど……ただ中学に上がって、何の気なしにその話をした際に、同じ小学校出身で購買部だった先輩が、先生に強く言いつけられていたって言うのね『大人が来たらすぐに先生に知らせること』って……私の時にはそんな申し送りなかったのに……」
 すると、Aさんが体験する以前から「大人」が購買部にやってくることがあったということだろうか? 
「私にもわからないよ、先生に訊いてもハッキリしたところは教えてくれなかったから……ただ『もう出ないかと思ってた』って言いぐさは今も気になるんだよね『来る』じゃなくて『出る』って何だよって……それに……」
 閉鎖された購買部の小部屋には、それからAさんが卒業するまでの間、神社から貰ってきたらしき大きなお札が掲げられていたという。


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「異臭」

営業のK

 これは知人から聞いた話。
 彼女が高校生の頃にあった出来事である。

 その頃、彼女の家の固定電話に妙な電話がかかってくるようになったそうだ。
 時間帯こそバラバラではあったが、毎日必ず二~三回、ちょうど家族が揃っている朝や夕飯時にかかってくる。
 しかし、いざ電話に出ても相手は何も喋らない。こちらが何度、
「もしもし……どちら様ですか?」
 と問いかけても、一向に返事がなかった。
 ただ不思議なことに、その電話に出るときまって受話器から果実が腐ったような甘い匂いがしたのだという。
 あまりに頻繁にかかってくる電話に、父親は電話機を相手の電話番号が表示される機種に買い替えた。

 買い替えてしばらく。
 満を持してかかってきた電話番号を見ると、それは彼女の兄が住むアパートの電話番号だった。
 その頃、彼女の兄は大学へ通うために、東京のアパートで独り暮らしをしていた。
 相変わらず電話に出ても無言で、いったん切ってから兄に電話をするが、今度は何度かけても電話には出ない。
 嫌な予感がした父親は、仕事の出張を利用して兄のアパートに寄った。
 盆暮れには帰省してくるので、こちらから東京に赴くことはなかったが、どうにも胸騒ぎがしたらしい。
 呼び鈴を鳴らす。返事が無い。
 父親は大家さんに頼んで、兄が帰るまで部屋の中で待たせてもらうことにした。

 大家さんが部屋のドアを開けた時、父親ははっとした。
 いつも、あの電話から香ってくる匂い。
 甘い果実が腐ったような匂いが鼻をついた。

 慌てて救急車を呼んだが、兄は既に死亡していたという。
 自殺だった。

 悲しみの中、葬儀が執り行われたそうだが、その後二度とあの電話がかかってくることはなかったそうだ。
 どうして電話の受話器を通して、兄の遺体の腐乱臭が匂ってきたのか……。
 それは今でも分からないのだという。


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「サボテン」

神沼三平太

「……昔のことなんですけど、同僚にいなくなっちゃった人がおりまして」
 近畿地方の大学に勤める檜山さんは、かつて委託社員として大学で働いていた哀川さんという女性事務員の話を教えてくれた。

「これ捨てちゃうんですか。可愛いのに」
 会議の帰りに、哀川さんは様々なガラクタが寄せられた一角で足を止めた。
 年度末の大掃除の結果、不用品と目されたものが事務室の廊下に出されているのだ。
「ああ、欲しいものがあったら持っていっていいよ。どれも明日には業者に持っていってもらっちゃうから。今のうちにね」
「それじゃ、私このサボテンのミニ鉢をいただいてもいいでしょうか」
 誰が置いたのか鉢植えのサボテンが捨てられていた。直径にして五センチ程度だろうか。その上にコロンと丸い緑色のサボテンが植わっている。檜山さんには、その鉢のサイズが二号鉢だという知識がある。若い頃にサボテンを何度か買い求めたことがあるからだ。ただ、当時買い求めた鉢にはもう何も植わっておらず、庭の隅に重なって放置されている。一年と経たずに枯らしてしまったのだ。
「サボテン、育てるの難しいですよね」
「え、そうなんですか。水もあまりあげなくていいし、簡単だとばかり思ってました」
 哀川さんはサボテンどころか、今までに鉢植えの植物を育てたことはないのだと、はにかんだような顔で打ち明けた。
「実家には小さい庭もありましたし、母は庭いじりも好きだったんですけどね」
 自分にはまだ植物と向かい合うのは早いと思っているうちに、そのまま社会人になり、アパートで一人暮らしをはじめるようになり、結局庭仕事にも植物を愛でることとも縁遠くなってしまったのだという。
 数年前に母が亡くなり、そのまま実家の庭も荒れ放題とのことだった。
 哀川さんの心の柔らかい部分を晒されているような気分になって、檜山さんはその場を逃げ出したくなった。
「――世話をしてあげる人がいないと、植物もかわいそうですよね」
 それには同意できた。

 鉢植えを持ち帰った翌日から、哀川さんの様子がおかしくなった。物思いに憑かれたかのようで、話しかけても反応が鈍い。
 さらにぽつぽつと休みがちになった。無断で休まれては困ると事務長からも注意を受けたが、一週間と経たずして仕事に全く出てこなくなった。今までの真面目な務めっぷりからは想像できない変わりようだった。どうやら連絡を入れても繋がらないらしい。
 これは急な病気で入院でもしているのではないか。それにしたって連絡の一本くらいは入れる余裕はあるだろうに。
 年度末から新学期という大学の事務が最も忙しい時期である。予告なく一人欠けるのは負担が大きい。正直困ったものだと周囲は思っていた。

 彼女のアパートは大学の最寄り駅のすぐ近くだ。以前一緒に帰った時に教えてもらったので、檜山さんは場所を知っている。
 お見舞いに行ってみるべきかしら。
 自然と足がそちらに向かった。彼女の住むアパートの窓は明かりが灯っていなかった。
 やっぱり留守にしているんだ。
 鉄製の階段を上ると、暗い蛍光灯の光の下で、哀川さんの部屋のドアが半開きになっていた。檜山さんは吸い寄せられるように扉に近づいていく。
 チャイムを鳴らしても返事はない。そもそも人の気配がない。
 やっぱり入院でもしているのかしら。まさか、部屋の中で亡くなっているとか?
 そう思うと、いても立ってもいられない。悪いと思いながらドアを開けた。キッチンの先に部屋が続き、一番奥側のカーテンの隙間から、街灯の明かりが差し込んでいる。ぼんやりとしたその光で、何か沢山のものが床に置かれているのがわかった。
 ドアの脇に手を伸ばし、指先で探るようにしてスイッチを点けた。
 眩しいほどの光量で電球が灯った。その照らし出した光景に、檜山さんは絶句した。
 床にびっしりとサボテンの鉢植えが敷き詰められていた。百や二百では収まらない数のサボテンの鉢が、キッチンも奥の部屋も埋め尽くしていた。
 その一番奥に、かろうじて何も置かれていない空間があった。縦長のその空間までたどり着くまでには、鉢を退かしていかなくてはいけない。
 檜山さんは夢中でサボテンの鉢を退けながらその空間にたどり着いた。
 空間は人型をしていた。
 その心臓に当たる部分に、哀川さんが拾っていったサボテンのミニ鉢が置かれていた。


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「えんじのだるま」

黒木あるじ

 ある男性が、ひとかかえもある大きな達磨を買った。知人が選挙へ出馬すると聞き「当選した際に目を入れてください」と善意で寄贈したのである。残念ながら知人は落選し、片目の達磨は「そのまま残していても詮無いから」と、男性が引き取ることになった。
 数年後、今度は親戚が立候補した。男性は物置の奥に放置していた達磨を引っぱりだし、必勝祈願のつもりで贈る。しかし親戚も当選かなわず、再び達磨は彼のもとへ帰ってきた。その後も知りあいの町議選に一度、甥っ子の大学受験の際に一度、達磨を贈っている。だが知りあいは最下位で落ち、甥は志望校を全敗。そのつど達磨は突きかえされた。
 甥の家から戻ってきた達磨をしまっているとき、男性は「おや」と首をひねった。達磨の色が微妙に変わっている。鮮やかな赤だったはずが心なしか黒ずみ、臙脂色になっている。ふと、血に似た色だなと感じた。敗者たちの負の感情を吸いとったように思えた。「この達磨のせいで彼らは負けたのではないか」という考えが頭から離れなくなった。
 そんなとき、高校の同級生が院長選挙に出ると知った。本人は、人脈やキャリアから考えて九分九厘勝てる選挙だと豪語している。己のなかに湧いた疑惑を確かめようと、男性は同級生へ達磨を贈った。自分と達磨の勝負でもあったという。
 やがて選挙当日、吉報を待つ男性のもとに同級生の奥さんから電話がかかってきた。
「主人が今朝、急性心不全で亡くなりました」
 通夜の席で返却された達磨は、さらに赤黒くなっていた。
 男性はすっかり厭になって、達磨を蚤の市で売り払ってしまった。だから、臙脂色の達磨はこの世の何処かに、まだ在るのだ。


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「雨の日の陽炎」

つくね乱蔵

 健康そのものの楠田さんは、病院とは無縁の日々を過ごしている。
 思い返せば、三十代の頃に虫垂炎で入院したのが最後だ。
 ところがこの冬、久しぶりに病院に通う日々が続いていた。
 楠田さん自身の病気ではない。母親が入院してしまったのだ。
 母親が世話になっている総合病院は老朽化が著しく、二年後には取り壊しが決まっているときく。
 そのせいか、構内外を問わず、あらゆる場所が薄汚れたまま放置されている。
 職員にも覇気が無く、居るだけで気が滅入ってくるような場所であった。
 朝から降り続く雨の中、その日も楠田さんは病院に向かった。
 いつものように駐輪場を抜け、玄関に向かおうとした楠田さんは、妙なものを見つけて立ち止まった。
 駐輪場に陽炎がある。屋根の下に立つ陽炎など聞いたことがない。そもそもが雨の日である。
 だが、それは陽炎としかいえないものであった。
 じっと見つめるうち、更に妙なことに気づいた。もやもやとした揺らめきが移動しているのだ。
 速くはない。よく見ていないと分からない程度の動きである。
 しばらく歩いてから振り向くと、陽炎はまだそこにいた。
 それからは気をつけて見るようにしていたのだが、陽炎が現れるのは決まって雨の日であった。
 何か起こるわけでもなく、ただじわじわと動き回るだけだ。怖いというより、何だか忌まわしい。
 師走に入ってから晴天の日が続き、いつしか楠田さんは陽炎の存在を忘れた。

 母親の退院を一週間後に控えた日のことである。
 久しぶりに朝からの雨であった。病院の近くまで来て、楠田さんはようやく陽炎のことを思いだした。
 目を凝らすまでもない。相変わらず陽炎は律儀に立っている。何らかの自然現象かもしれないなと考えながら、楠田さんは玄関前で傘を畳んだ。
 その時である。玄関に横づけにされたタクシーから、親子連れが降りてきた。
 険しい顔つきの母親が、三歳ぐらいの男の子を抱いている。男の子は肩で息をしており、見るからに具合いが悪そうである。
 先を譲ろうと退いた楠田さんの目の前で、あの陽炎が動いた。今までの緩慢な動きは何処へやら、陽炎は瞬間移動としか思えない速さで母親に近づき、男の子を丸ごと包んだ。
 その途端、男の子の呼吸が止まった。
 母親の悲痛な叫びに気づいた看護師が駆け寄ってくる。病院の中に搬送される寸前まで、陽炎は男の子を包み込んでいた。
 翌々日も雨であった。やはり、陽炎はいた。
 楠田さんは急に恐ろしくなり、病院の裏口に回ろうとした。ゆっくりと動く陽炎を横目に見ながら、急ぎ足で裏口へ向かう。
 途中、親子連れとすれ違った。母親が息子に話しかけている。
「ようちゃん、大丈夫よ。お熱、早く治してケーキ食べに行こうね」
 息子は辛うじて返事できるぐらい弱っている。
 このまま進むと陽炎に捕まってしまうのではないだろうか。どうにかして引き留めなくては。
 振り返った楠田さんの目の前に陽炎がいた。陽炎はあっという間に男の子を包んだ。
 男の子は上を向き、母親に何か言おうとしたまま呼吸を止めた。


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「円い水」

川奈まり子

 電車通勤をしている佐藤さんは、いつも決まった道を歩いて最寄り駅へ行く。住宅街を突っ切るおよそ十分の道のりだ。佐藤さん自身と似たり寄ったりの暮らしぶりがうかがえる現代的な二階家が建ち並ぶなか、一軒だけ古色蒼然とした板壁の平屋があって、いつも気になっていた。  なぜか常に雨戸が閉まっているのだ。相当築年数が経っていて方々が傷み、朝も晩も雨戸を閉ざしているので、まるで空き家のようだが、日が落ちると道に面した炊事場の小窓に灯りが点く。
 休日に散歩がてら何回かようすを確認しに行ったので、日中も雨戸が閉まっているのは確認済みだった。
 いつか雨戸が開くのではないか、と、期待込みの好奇心が膨らんで、次第に抑えがたくなってきた――そんなある日の夜、佐藤さんは今の家に住むようになって初めて、徒歩で会社から帰宅するはめになった。終電を逃してしまったのだ。幸い、会社と自宅、それぞれの最寄り駅は二駅しか離れていないので歩けないことはない。
 例の家の辺りに差し掛かったのは、午前二時頃だった。
 かなり手前から、件の家の前に丈の短い黒い影があるのを認めていた。
 初めは歩道に何か物が置かれているのかと思ったが、近づくにつれ、女だとわかった。
街灯がスポットライトのように女を照らしていた。歩いている佐藤さんの方に折った両膝を向けて、いわゆるペタンコ座りをしている。深くうなだれているため長い髪に顔が隠されているが、体つきから推して、若い女だ。
 酔っ払いか病人か、それとも異常者か……。声をかけるタイミングを計りながら、佐藤さんは間合いを詰めていった。
 しかし結局、彼は声を発することなく通りすぎたのだった。
 女は、コンパスで引いたような円形の水の真ん中に座っていた。
 完璧にエッジが切れた円の形が此の世のものとは思われず、それにまた、水には深淵の気配があり、垂れさがった髪の毛先を呑んで黒々と底が知れない。
 ――水面が街灯を照り返して、ぬらりと光った。
 佐藤さんが慄いて小走りに離れるまで、終始、女は微動だにしなかった。
 振り返ったときも女はまだじっとしていたが、翌朝、同じ場所を佐藤さんが通ったときには、水の痕跡すら無かった。
 乾いた歩道の横に建設会社のトラックが停まり、作業員たちが問題の家を取り囲んで忙しなく働いていた。
 数日後、そこは更地になっていた。


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「学生寮」

高田公太

その学生寮にはどんなに部屋が埋まっていても希望者を入居させない、開かずの部屋が一つある。

なぜ誰も入居させないのか。

その理由は歴然としている。
そこでかつて自殺した学生がいるからだ。
古い造りではあるが、利便の良い場所に位置するため以前より人気の寮である。
入ってくる学生たちが、その部屋のことを先輩から後輩へと連綿と語り継いでいくため、いつまでたっても事故物件扱いせざるをえないのだ。
何かあったら、困る。
そんな大家の考えがあるのだろう。
その寮にかつて住んでいた小谷くんから聞いた話によると、どうも実際に〈何かある〉とのことで……。

寮には門がある。
まず鉄製の門を開けて、ちょっとした庭を抜けると玄関に行き着く。
ちょうど門から見上げて二階の左側にある窓が開かずの間の窓だ。
夜間に寮へ戻ると、時折、開かずの間の照明がついていることがある。
白いカーテンが室内の光で煌々と照らされているのだ。
もちろん開かずの間の鍵は閉まっているため、寮に入って室内を確認することはできない。
どうなっているんだろう、と寮内外をウロウロしている間に照明は消えてしまうので、探るのはまったくの不毛だ。
中に人がいる気配を感じる、と口にする者もいるが、中に入れないので確かめようもない。

不思議と「部屋の中から物音がする」といった類の噂が一つもない。

同じ寮に住んでいた後輩が、開かずの間の窓が開いているのを外から見た、という。
室内は暗くてよく見えなかったが、少しだけ本棚が見えた、とのことだった。

年末が近づくと寮の大掃除が行われる。
その日は、大家の手により、いとも簡単に開かずの間のドアが開かれる。
その折に小谷くんが室内を覗くと、中には何ひとつ置かれておらず、照明すらぶら下がっていなかった。
窓もドアも開け放したまま、大家が畳に掃除機をかける様を見ると、開かずの間もへったくれもないな、と拍子抜けする

とはいっても、やはり夜間にその部屋の明かりがついていることは、ままあったのだそうだ。


★次回は川奈まり子さんです。どうぞお楽しみに!

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